黒き誘い

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 突如として現れたそれは、あまりにも黒かったのだ。人類誰も経験したことの無いような黒だった。我々は果たしてそれを、黒として、色として扱ってよいものなのか。視界のその部分だけ、視覚器官の働きが失われてしまったのであろうか。例えそうであったとしても、視覚機能の欠損により生じた予期せぬ余白部分を補完するための機能はそれではどこへ行ってしまったのだろうか。表面の凹凸すらも確認できない、はたまた、それが果たして平面状のものなのだろうか立体物なのだろうか皆目見当もつかない。  とにもかくにも、その色の観測は人類にとって未知との遭遇を意味していた。それは人類が初めて遭遇した『完全』であった。色の識別はその人の有する文化や置かれた生活環境、或いは周囲の環境や身体的要因による偏差があり、従来行われてきた色彩用語による色の分別に関しても、凡そ近しいとされる光の波長を分割し、便宜を図って分節化したものである。従がって、我々の色に対する認識は曖昧かついい加減で、他人と共有する上では期待的な側面があった。しかし、その色は正に、誰が目にしても寸分の狂いがなくただ一点に絞ることができ、誰の尺度で測ろうと同じ値を指す絶対的な定量数であり、これまでその存在を散々に議論され続けてきた全人類に共通する普遍的観念の発見であった。  濃い、深い、吸い込まれそうな、あらゆる言葉を尽くそうと、彼について言い表すことは叶わない。彼が固有名詞として定着するのも最早時間の問題であろうが、固有名詞となった彼が指し示すのは我々の何であろうか、果して見当もつかなかった。我々はあらゆるノイズが除去された、彼の究極の外見に、この世で最も完成された彼の身体に魅せられた。これは不完全な我々がより高邁な存在に対して行う崇拝などでは決してない。彼の究極なまでに単純化されたその外見を感じるには心の表層部分では雑念が多すぎるあまり、彼が彼でいられるほどの隙間が残されていない。彼を感じるには、彼に相応しい、彼のようにもっと、もっと単純な構造の深部に落としやる他仕様がなかった。彼を心の底の奥底に落とし込めば込むほど、彼のその姿がより鮮明に、鮮烈に浮かび上がり、瞳孔の裏を支配し、脳裏に焼き付き、そして、全身の血液を巡り巡ってやがて心臓に滞留し、さらなる深淵に我々を誘い込んだ。彼を見ようとするあまり、我々は彼の色に限りなく近く、心底から塗りつぶされ、さあ単純化された色や形は我々から個人の識別記号を見事に奪い去ってしまった。その結果、我々は彼を伝達のツールとして、互いの存在を感覚的に認識するようになった。  我々は彼に支配されたのだ! 思考も、価値観も、精神も、存在も。国境による隔たりも、民族的な隔たりも、文化的隔たりも一切を取り除かれた非常に単純な領域で無意識的によって完璧なまでに統一され、我々は個々のアイデンティティをも失ったのだ。もはや我々は、この地球上において何者でもなくなった。理性など必要ない、本能は忘却の彼方、自我は失った。全て、これは全て、彼が、まったくもって完全な彼の、その完全さがもたらした結末である。完全に完成されたものは人を潔癖に狂わせ、狂わされた人はまず言葉を失い、思考を失い、そして自我を失った。私はこれほどまでにグロテスクなものを見たのは私の人生で一度もない。我々人類が夢にまで見、数多の血肉を注ぎ、それでも我々では敵わないとあきらめ去ったそれを、我々が紡いだ歴史があたかも無価値なものであると主張せんばかりにさも当然に存在していたかのように我々の目の前に姿を現し、そして我々はそれを受け止め悔しがるどころか、ハイエナに崖まで追い詰められ崖に身を投げるインパラの群れの如く、彼の魅惑に落ちてゆく。畏怖や敬虔の類ではない、全く理論の立たない心の奥深くの、小波一切立たない水面のような場所に、彼はそっと足をつけ、波紋をゆらゆら、心の隅々まで広げていく。その吐き気を催すような現象に比べたら、まだ心臓を直接手で握り潰された方がましであるとすら思えてくるが、しかし人々はそれを安楽に満ちた表情で迎えるのだ。ああ、なんと気持ち悪い! 黒いから何なのだ! 何が我々をそこまで魅せる! あれを一目、いや、素粒子まで物事を分解してもさらに十のマイナス一万乗小さな微小時間彼を目に入れるだけで、一気にあの黒より黒黒しい闇の中に吸い込まれそうになるのだ。  これを見ている諸君、おそらく諸君は私と同じく、彼から逃れたか或いは、彼が去った後の将来の地球の支配者であろうが、見ての通り、これは私からの警告である。彼が如何に危険であるか、それを後世に残さねばならない。我々は二度と、完全を求めてはならない! 出会ってはならない! あの出会いは、我々人類の最たる禁忌であったのだ!
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