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間違った距離感
仕上げにレンズを綺麗に磨き上げると、丁番が丁度良く締まった眼鏡が笹生の手に戻ってくる。
恐らく、眼鏡のメンテナンスのことを指して好きと言ったのだろう。精密ドライバーを持ち歩いているくらいだ。
なんだかほっとした。
眼鏡を人に預けるというのは視力を預けるのと大差ない。それに何より、自分の一部でもある眼鏡が冬木の手の中にあると思ったら、変なふうに鼓動が早くなり、心臓の音を聞かれるんじゃないかと心配になるくらいだった。
「笹生くんは……眼鏡を外すと幼く見えますね。……夏也くん、て呼んだ方がしっくり来るような」
「――近、い」
唐突に距離を詰められた感覚に陥り、わけもわからずそわそわしていた笹生は更に落ち着きを失った。さっきから何を動揺しているのだろう。
嬉しいはずなのに素直になれないのは、想定外の事態だからだ。笹生にとって推しは恋愛対象ではないので、ある程度の距離感は必要だった。
それともこれは、アルコールが見せている幻なのか。あるいは裸眼で見るぼんやりとした世界が、笹生の深層心理にある願望を叶えてくれているのだろうか。
――そんなわけないだろ。
「かけないんですか?」
冬木はやけに優しげな声を出して、笹生の手から眼鏡を取るとその顔に戻してくれた。世界の輪郭がはっきりと像を結んだ。
「普段の笹生くんでいてくれないと、僕は何か上司らしからぬことを言ってしまいそうです」
「それはどういう……」
相手がどういう意味で言っているのか、よくわからなかった。いや、なんとなく察することは出来たが意味がわからなかったのだ。冬木のような男が、笹生に興味を抱く理由がない。
「聞かないほうがいいですね」
冬木は静かに笑って、皿の料理に箸をつけた。
聞いてしまったらどうなるのか。
聞かない方が良かったのか。
夏也くん、と呼ばれた聞き慣れない声の響きに、笹生の思考はうまくまとまらないでいた。
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