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居間のソファーで、僕は目を覚ま
した。
午後開いた地理の教科書がページ
をそのままにテーブルにあった。
ソファーを離れて、バルコニーに
出ると、向かいの家の犬が屋上の舳先にへばりついている。
僕を見て申しわけ程度に尾を振っ
たが、すぐまた、下の通りに目を
凝らした。
家の主が帰る時刻だからだ。
もし屋上に置かれているのでなか
ったら、主人を迎えに表に走り出
て行くだろう。
メキシコシティの空は泣き出しそ
うで、夕刻の風は肌寒かった。
しばらく〈彼〉の夢を見なかった。
今しがたの夢の中の〈彼〉に似た
若者の姿を思い浮かべると、甘い
疼きと不安が交差した。
最後に〈彼〉に会ってから半年近
くになる。
一階に降りて行くと母さんが夕食
の支度をしていた。
ふたりでの夕食の後
──もちかけてみた。
「夏休み早々で悪いんだけど
僕…ちょっと
L.A.まで行きたいんだ」
「行く? ひとりで?
ユキ。たしか去年も
そうだった…
夏休み早々で、あのヒト
──お父さんは欧州で」
「学校の友だちと、バス旅
しようってことになってさ。
3人で1週間ほど…」
とっさの思いつきで、日系2名の
級友の名をあげた。
「お父さんは承知?」
「ううん。あのヒトには
適当に言っといてよ。
ロスアンゼルス空港の2階で
饂飩と、フィゲロア通りで、
吉野家の牛丼食べてこようと
思ってるんだ」
「ユキ。トム・ブラッドリー(☆)
まで行くんだったら、DFS
(Duty Free Shop・免税店)で
大家さんのお孫さんに
USAみやげ、見繕って
来てくれない?」
母さんが300USドルをくれた。
「連絡を必ずね」
「わかってる。毎日電話する」
今さらテワナまでだとは言えない。
彼女はキッチンの窓から灰色の空
を見上げた。
「降って来た。雨季とはいえ、
メキシコでこんなに雨が続く
なんてね…」
「D.F. (メキシコシティ)
限定じゃないかな?
塵が多いからだよ」
「都市現象?」
「たぶんね」
こうして僕は、経費付きの自由時
間を奪取したが、胸の不安が去らない…
昼の夢に立ち現れ、地卓に倒れた灰褐色の狼は、夜も枕辺に現れて、泡だった黒い血をしたたらせ、見開いた目で、僕を求めた。
夜半に目を覚ますと、遠吼えに呼
応するかのように向かいの犬が吼
え始めた。
うそ寒かった。
雨はあがって雲は早く流れていた。
胸が騒ぐ。
急がなければ…
2
☆Tom Bradley
ロスアンゼルス国際空港の愛称。
L.A. 初の黒人市長にちなんで
名付けられた。
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