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「俺の妻はな、お野々という。十五も下の、若い器量の良い娘だ。俺にとっては3人目の女房だ。俺は仕事一辺倒であまり家にいない。前の2人にゃそれで逃げられた。お野々にも寂しい思いをさせただろう。子どもがいればまた違ったんだろうが……なかなか縁がない」  俯くと前髪から雫が滴って草履を濡らした。  家の裏でお野々が頬を濡らしていたのを思い出す。母に孫の顔を早く見せろと詰られていた。そのせいもあってか、お野々は子を切望していた。 「この先の村には、子授け神社があるらしい。その村に住んでいる知人から噂を聞いたお野々は、参拝に行くと言って出ていった。女の足でも1日もあれば帰って来れる距離だ。なのに、もう3日も音沙汰ない」 「それは、心配にもなる」 「他に男ができたと言うなら、まあ良い。ろくに家に帰らぬ男に、とうとう愛想が尽きたのだと言われれば、返す言葉もない。けれど、もし、何かあったなら、迎えに行ってやらねえと」  真剣な顔でそう言う𠮷信を眺め、僧は「お前さん、面白い男だね」と可笑しそうに笑う。  何故笑われたのか分からず、怪訝そうな顔で見つめ返した。𠮷信からしたら、目の前の僧こそ可笑しな見た目をしているというのに。 「いかにも執着心の薄そうな男だと思っていたんだ。実際そうだろうに、強い義理堅さも同居している。だから面白い」 「……あんた、本当は坊さんじゃねえだろ」  人の不幸を面白がりやがって。  横目で睨み付ければ、深編笠の下からくつくつと笑い声が聞こえてくる。  今時、虚無僧のふりをした無頼漢なんて珍しくもなかった。赤子を連れた薄い体の男が悪たれだとは思わないが、少なくともまっとうな僧ではないのだろう。  舌を打てば、「そんなに怒らないでおくれ」と宥めるような声が降ってくる。 「奥方が無事だといいね」 「……心にもねぇことを言いやがる」 「まさか、本心だよ」  気がつけば雨音は殆ど聞こえなくなっていた。  薄くなった雲間から差し込む細い日の光を、目が見えない筈の虚無僧は見上げるような仕草をする。 「雨もあがったようだし、俺はもう行く」  笠を直しながら𠮷信は木の幹に預けていた背を起こした。雨は完全に止んだわけではなかったが、この程度なら問題ない。それよりも、この奇妙な僧と距離を置きたかった。 「ああ、急いだ方がいいだろう」  予言めいた事を言いながら、僧は手を振る。 「また」  なんて、背中へ投げられた言葉に、𠮷信は「冗談じゃねえ」と心のなかで返した。
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