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じっとりと湿った六月の空気とともに電車に乗り込んだ瑞樹は、車内を見回して空いている席がないことを確認すると、座席の端の衝立にもたれて小さな溜息をついた。
夕方のラッシュにぎりぎり巻き込まれなかっただけ僥倖と言うべきだろう。
さっきまでのグループ面接を頭の中で反芻する。大きなミスは無かったと思うが、かといって目立って良かったところも無いように思える。
スーツの下で肌に張り付くワイシャツがひどく不快だ。本格的に就活が始まって、このところは週に半分以上はこの格好だというのに、未だにスーツに着られていると言った風情である。
スマートフォンを取り出して、ロック画面に表示された通知に目をやった。
特別悪い報せはないが、良い報せもない。
選考の開始は六月から、なんていうのは建前で、同級生の中にはもうすでに複数の内々定をもらっている者もいる。
瑞樹の元にはまだ内々定の報せが来たことはないが、だからといって別に特段うまくいってないというわけではない。
書類選考はいくつか通っているし、今日の企業も二次面接だったのだから、至って平凡な進行具合だ。単に「特別優秀な学生」ではなかったというだけで。
それだというのに、瑞樹の心にはここのところずっとひりひりとした焦燥感が重くのしかかっている。
瑞樹はその状況よりもむしろ、自分がそんなものを持ち始めたことそれ自体に静かな衝撃を受けていた。
――僕って、結構自信家だったんだな。
そう自嘲しながらも、傲慢とまでは言い切りたくない虚栄心からそっと目を逸らす。
ぱた、ぱた、という音に気付いて、瑞樹は顔を上げて車窓に視線を向けた。
車窓に透明なストライプができている。
どおりで蒸し暑いわけだ、と思ったところで、折り畳み傘を忘れてきたことに気づく。つくづくついてない一日だ。
電車が進むにつれてストライプの密度はどんどん高くなってゆく。それとともに瑞樹の心もじっとりと重くなる。
別に、周りの優秀な同級生たちみたいに、インターン先の会社から声がかかってるとか、スカウトが何件も来てるとか、そんな高望みをしてるわけじゃない。ただ、せめて濡れネズミみたいに惨めな思いをしないためのお守りが欲しいだけ。
最寄り駅への到着を知らせるアナウンスとともに電車から降りた瑞樹はふと時計に目をやって、恋人の顔を思い浮かべた。
彼は駅前のビルにある学習塾でバイトをしている。ちょうど十分前にシフトが終わったはずだ。
もしかしたら会えるかもしれない。
会えなかったとしても、ビルの中にはコンビニがあるから、そこで傘を買って帰れば良い。どっちにしても無駄足にはならない。
そう思った途端に瑞樹の足取りは軽くなる。
学習塾のあるフロアに着いたところで、見慣れた長身が目に入った。
「お疲れ、佑人」
駆け寄って後ろから声をかけると、彼はぱっとこちらを振り返った。整った顔に驚きの表情が浮かんで、それが一瞬で喜びに変わる。
「びっくりした。瑞樹こそお疲れ。今日は割と早いな」
「近いところだったからね」
「ああそうか、今日はⅯ駅の近くって言ってたもんな」
そんな些細なことまで覚えてくれていることが嬉しくて、瑞樹の口元が綻ぶ。
佑人は、こんな時決して「どうだった」とは訊かない。そういうところが心地よい。瑞樹の方も、佑人の院試の勉強については何も訊かないことにしている。
半分は気遣い、半分は現実逃避だ。
二人で並んでエスカレータを降りて、自動ドアの前に立ったところで、佑人がようやく雨に気づいた。
「あ、やば、俺傘持ってない」
「実は僕も」
祐人は一歩外に踏み出して空を見上げると、再び建物の中に戻ってきた。
「俺だったらこのまま濡れて帰るけど、瑞樹はそんな訳にいかないから、ちょっと中で雨宿りしていこう」
そう言って彼はすたすたと歩き出す。瑞樹は慌てて彼を追いかける。
寂れた駅ビルにありがちな、かつては店舗が入っていたのであろう不自然な空きスペースに並べられたベンチの一つに二人は腰を下ろした。
ガラス張りの壁から、外の雨が見えている。
ふふ、と瑞樹が漏らした笑い声に、佑人は怪訝な眼差しを向けた。
「え、なに」
「いや、どう考えても濡れて帰るのは無いでしょ」
呆れたような瑞樹の言葉に、佑人は少しむっとした顔をする。
「パーカーのフード被ればいけるだろ」
「いやこの雨でそれは無いって」
「ちょっとぐらい濡れたってなんてことないね。瑞樹は軟弱だな」
今度は瑞樹がむくれる番だ。
それからしばらくの間、何も言わずにただ並んで外を眺めていた。その間も瑞樹の焦燥感はちりちりと彼の胸を焼いて、それが思わず言葉に出る。
「ていうかさ、雨、ずっと止まなかったらどうするの」
「二人の時間が増える」
瑞樹は驚いて佑人を見上げる。同時にこちらを向いた彼の顔には、珍しくどこか不敵な笑みが浮かんでいた。
それにつられて瑞樹も笑みをこぼした。
そうだ、傘をささずに濡れたって別に何とかなるし、雨が止まなければ、それはそれで良いこともあるのだ。
ひとしきり二人で笑い終わると、佑人がすっと立ち上がった。
外を見ると、いつの間にか雨は止んで、空には晴れ間が覗いている。
「もう止んじゃったね」
「さっき西の方が晴れてるのを見てたからな。実はもうすぐ止むってわかってたんだよ」
佑人は得意げな顔だ。付き合い始めた頃はいつも仏頂面だったのに、最近は随分表情豊かになった。
この変化を見続けていられさえするなら、まあとりあえず他のことは何とでもなる。不思議とそんな風に思えた。
「名残惜しいけど、行くか。お互い忙しいもんな」
佑人の言葉に頷いて、瑞樹もゆっくりと立ち上がった。
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