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「申し訳ございません、衣都様。奥様はお客様が帰られたばかりで、お疲れのご様子でして……」
「そうですか……」
「お力になれず申し訳ございません」
「いいえ!こちらこそいつも気を遣わせてしまって、すみません」
衣都は申し訳なさそうに謝罪の意を告げる家令を労わった。
断りの文言が少し変わっただけで、門前払いには違いなかった。
「おば様のお好きなブランデー入りのカステラを持ってきたんです。よかったらおば様にお出ししてください」
衣都は手土産を渡すと家令に会釈をしてその場から立ち去ると、その足でピアノのある離れに向かった。
出入り口こ扉に鍵はかけられていなかった。
衣都は離れに足を踏み入れると、在りし日のように黒々と輝くピアノのボディを撫でていった。
四季杜の屋敷に住んでいた頃がひどく懐かしい。
初めて響と顔を合わせた後、胸の高鳴りがいつまでもおさまらなかった。
初恋もまだだった衣都は、それが何を意味しているのかすぐには気づかなかった。
気になってしかたがないくせに、傍にいると落ち着かない。廊下でうっかり鉢合わせしようものなら、走って逃げ出す始末。
なぜこんな奇怪な行動に出てしまうのか、自分でも意味がわからなかった。
衣都は心のモヤモヤを晴らすように、ひたすら離れのピアノに向かい続けた。
――ほどなくして、扉の内側にチョコレートが置かれるようになった。
律に聞いても知らないと言われてしまい、思い切って綾子に相談すると、チョコレートを差し入れする謎の人物の正体をこっそり教えてくれた。
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