7.春を寿ぐ旋律

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 ◇ 「衣都?」  衣都の様子を窺いにきた響はもぬけの殻になったゲストルームを見て愕然とした。 「衣都、どこにいる?」  パウダールームにも、トイレにも、バルコニーにもいない。  テーブルの上には広げたままの譜面とスマホが放置されていた。  さきほどまでこの場にいたことは確かなのに、一体どこに消えたというのだろう。  荒らされた形跡もないことが、違和感に拍車をかけた。 (嫌な予感がする)  胸騒ぎがした響はすぐさまゲストルームに律を呼んだ。 「衣都がいない?大広間にもいませんよ」  衣都の行方を尋ねても、律は心当たりがないという。  二人は互いに顔を見合わせた。  本番の時間まであと三十分を切っている。  これが何を意味するか、わからないほど呑気ではない。 「律、衣都を探してくれ。くれぐれも父さんに見つからないようにな」 「わかりました」  優秀な律はすぐさま警備担当に電話をかけ、人手を募り始めた。  本音を言うのであれば、今すぐ自分も衣都を探しに行きたい。しかし、響が長時間いなくなったら、秋雪に異常を察知されてしまう。  響は身を切られるような思いで大広間に戻った。 ゲストと談笑する頭の片隅で、自由にならない身の上をひたすら恨む。 (どうか無事でいてくれ)  衣都が見た目通りのただ大人しい女性だったら、こんなに夢中になったりしない。  あの日、怒りをすべてピアノにぶつけていたように、身の内に激しいものを持っていると知っているからこそ、無茶をしないか心配でたまらないのだ。   「響さん」  衣都を探しに行っていた律が、そっと響に呼びかける。険しい表情からして、いい知らせではなさそうだ。  律は人目を憚るように、耳打ちをした。 「本当か?」  律が持ってきたのは、梅見の会を欠席したはずの綾子を発見したという報告だった。
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