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衣都がこの日のために選んだのは、春のときめきを表現したピアノ曲だ。
凍てつく冬はあまりに長く、温かな春が待ち遠しい。
春を告げるほととぎすを待つように。桜の花びらが綻ぶのを望むように。
誰しもが春に憧れを持っている。
衣都のピアノはまるで春を呼ぶための神聖な儀式のようだった。
若木が萌え、鳥が大空を飛んでいく。梅の木が風に吹かれて、たおやかに揺れていた。
幾つもの願いをのせた憧れと喜びの旋律が、空気に溶けていく。
(おば様にも聴こえているかしら)
衣都がこの曲にこめた気持ちはちゃんと伝わっているだろうか。
響のことを愛おしいと思う気持ち。自分をここまで導いていてくれた綾子への感謝の気持ち。
土蔵に閉じ込められても、恨む気持ちが微塵もないこと。
(どうか届いて欲しい)
言葉ではうまく伝えられないから、メロディーにのせて届ける。
大広間にいる誰もが衣都のピアノの音に、聞き惚れていた。
魂を削り、奏でる春の旋律。
衣都は死力を尽くし、最後の一音まで完璧に弾き切った。
「衣都」
曲が終わり茫然としていた衣都は、響に肩を叩かれ我に返った。
先ほどまで聞こえなかった大広間の音が一斉に耳に飛び込んでくる。
皆、衣都の演奏を褒め称え、賞賛を惜しまなかった。
衣都はスツールから立ち上がり、その場で一礼した。
即座に響が腰に手を添え、割れんばかりの拍手を背にし、退場までエスコートしてくれた。
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