財閥御曹司は最愛の君と極上の愛を奏でる

１．恋とピアノとチョコレート

「衣都(いと)先生、バイバーイ！」
「また来週ね。お家でも練習するのよ！」

　衣都はレッスンから帰っていく生徒達を全員見送ると、冷え切った指先を温めるように、はあっと息を吐きかけた。
　今しがた衣都に明るく手を振っていた彼女が、保護者の迎えを待つ最後のひとりだった。

　そろそろ冬の呼び声がかかる、十月。
　日差しの温かい昼間ならともかく、すっかり日が暮れた夜六時ともなると、寒さは日を追うごとに増していく。
　秋特有の澄んだ空気の中に幹線道路を走る車のヘッドライトばかりが眩しく映る。
　衣都はクルリと踵を返すと、背後にある雑居ビルの階段を上り始めた。
　都心にほど近いベッドタウンのひとつ。最寄りの駅から歩いて三分の距離。エレベータのない古めの雑居ビルの三階にある、音符を模した木製プレートがかかったすりガラスの扉の先が衣都の職場だ。

「お疲れ様、衣都先生」
「お疲れ様です。和歌子(わかこ)先生」

　生徒の見送りを終え事務室に戻ってきた衣都は、室長である和歌子から労いの声をかけられ、会釈を返した。
　和歌子は衣都が働いている『コスモスハーモニー音楽教室』の経営者であり、ピアノ講師として二十年以上の経験を持つベテランである。
衣都は音楽大学を卒業した二年前から、この音楽教室でピアノの講師として働いている。