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◇
翌日、衣都は寝不足のまま仕事に向かった。
発表会明けの最初のレッスンということもあり、子ども達まで気もそぞろだ。
「さあ!今日から新しい気持ちで、頑張りましょう!」
衣都はあえて自分のことを棚上げした。
子ども達に檄を飛ばし、場を仕切り直すようにパンパンと手を叩いた。
レッスンの最中、ふとした瞬間に『結婚』の二文字が頭をよぎったが、なんとか堪えた。
「バイバーイ!」
「また来週!」
レッスンを終えた衣都は、生徒を見送るために教室の外に出ていた。
次々と迎えにやってくる保護者に子ども達を引き渡しては、別れの挨拶を交わしていく。
「衣都先生」
「ユウくんのお父さん、こんばんわ」
忙しない衣都に話しかけてきたのは、ある生徒の父親だった。母親や祖父母が送迎するケースが多い中、この生徒だけはいつも父親がやってくる。
「先日の発表会の演奏は本当に素晴らしかったです……!なあ、ユウ?」
「うん!すごかった!」
「特に最初のフォルテッシモ!あれはいい!」
父親は興奮を抑えきれない様子で、衣都の演奏を褒めちぎる。たっぷり五分は熱弁を振るっていただろうか。
「あ、ありがとうございます……」
衣都はお礼を言いながら、父親に微笑んだ。
多少は面食らったものの、生徒だけでなくその保護者からも褒められるなんて、講師冥利に尽きるのひとことだ。
「さようなら!衣都先生!」
「また、来週ね」
衣都は会釈をする父親と手を振る生徒の姿が見えなくなるまで歩道に立ち続けた。
全員の見送りが終わり教室の中に戻ろうとしたその時、見覚えのある一台の車が道路脇に停車する。
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