3.財閥御曹司の熱情

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 この日、衣都が選んだのは、ベートーヴェンの三大ピアノソナタのひとつである『月光』だ。  しっとりとした緩やかなメロディーが波立った心を鎮めてくれる。  ピアノがあってよかった。辛うじて正気を保っていられる。 (私はずるい……)  心のどこかで後ろめたさを感じながら、それでも響と同居を続ける自分自身に、とことん嫌気がさしている。  口では『そんなつもりはなかった』と弁解するくせに、結婚の話を未だに保留にしているのは卑怯者のやり方だ。  響が迎えに来た時、逃げ出さなかったのも、理由はどうあれ好きな人の関心を引いている状況が心地良かったからに違いない。   (響さんは何を考えているのかしら……)  しきたりだからと結婚を迫る響の心がよくわからない。  浮世離れしていて掴みどころのない響だが、これまで衣都に何かを強制することはなかった。  そもそも、響は他人にそこまで興味がない。  衣都に対しても、この先は踏み込まないという線が明確に敷かれていたと思う。  だからこそ、断られるのを覚悟であんなお願いをしたのだ。  それなのに……どうして今回に限っては遠慮なしにズカズカと踏み込んでくるのか。  最後までピアノを弾き終えても、衣都はしばらく鍵盤の上から指を離せないでいた。  ……何か釈然としない。
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