3.財閥御曹司の熱情

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「弾いていいってさ」 「えっと……じゃあ、一曲だけ……」  衣都はせっせとカバーを取り、鍵盤の蓋を開けた。  鍵盤をひとつ押すと、ポーンと軽やかな音が響く。音に狂いはなく、調律もしっかりされているようだ。  幸いなことに今日の海は凪いでいて、揺れも少ない。これなら普段通りに弾けそうだ。  衣都がスツールに座ると、食事に舌鼓を打っていた乗客が何を演奏するのか興味津々で視線をこちらに向けてきた。  彼らの期待に応えられるよう、暗譜している中からディナークルーズに相応しい一曲を選ぶ。  ロマンティックな夜景と広大な海に敬意を表したチャイコフスキーの『ピアノ協奏曲第一番』。  レストランには老夫婦、子供を連れた家族、幸せそうなカップルと様々な幸せが溢れていた。  今日という日の思い出を彩る一節になればという願いをこめ、メロディーを奏でていく。  一曲引き終え鍵盤から手を離すと、即興にも関わらずテーブルのあちこちから拍手が聞こえてきた。  思っていたよりも注目を浴びてしまい、居心地が悪くなる。  衣都は一礼すると、そそくさと響の元へ戻った。 「素敵な音色だったね」 「上手く弾けてよかったです」  結婚式や音楽会でピアノを弾くことはあったが、海の上というのは初めての体験だった。  慣れない場所での演奏ということもあり緊張したが、響にも乗客にも喜んでもらえてよかった。
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