3.5.君にしかけた甘い罠

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 衣都のピアノは荒々しかった。  感情の赴くままに、脇目も振らずにピアノへと向かう衣都に、思わず目が釘づけになる。  まるで自分の感情をすべてピアノにぶつけているかのようだった。  口数の少ない衣都の代わりに、ピアノが雄弁に語りかける。  彼女の怒り、苦しみ、悲しみ、嘆き、痛み。  次から次へと違う感情がピアノにこめられていく。  聞いてるこちらまで、どうにかなりそうな音の奔流だった。 (当たり前か……)    衣都はまだ十四歳。  たった数ヶ月の間に両親を失い、住み慣れた家からも追い出されてしまった。  親戚を頼りにすることもできず、父親が守ろうとした会社は買収され、世間から三宅製薬の名前は消え去った。  厳しい現実を受け入れるには、衣都はあまりに幼かった。  そうして窓の外で立ち尽くしていると、やがて音が鳴りやんだ。  一曲弾き終えた衣都は、ハアハアと肩で息をしていた。  何度か唾を飲み込むと、今度は目尻から涙が次から次へと零れ落ちた。  声を上げて泣き叫ぶのではなく、じっと耐え忍ぶように静かに涙を流すその様は――途方もなく美しかった。  響はとっさに目を逸らした。 (どうした……?)  見てはいけないものを見てしまった罪悪感と、この世のものとは思えぬほど美しいものを見た高揚感のせいなのか。  心臓の鼓動がやたらと速い。 見咎められないうちにこの場から退散しようとも思ったが……泣いている衣都をどうしても放っておくことができなかった。  考えあぐねいた末に、響は食堂からチョコレートをいくつかくすねた。  食後のティータイムの時に出されるお茶請けのひとつだ。  響は離れに戻ると、チョコレートをのせた小皿を扉の内側にこっそり置いた。  甘いものを食べれば少しは気休めになるかもしれない、という響らしからぬ非合理的な論理だった。
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