3.5.君にしかけた甘い罠

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 それから響は時間があるときは、衣都のピアノを聞きに行くようになった。  衣都は学校から帰ると、夕食の時間までは離れに籠るのが日課だった。  律から聞いた話によると、コンクールでの入賞経験もあるなかなかの腕前らしい。  衣都のピアノは特別だった。  当然ながら技術の面ではプロの演奏家にははるかに劣っている。  しかし、自分の心の内を音色にのせて奏でられるのは、ある種の才能だと言わざるを得ない。  いつしか響は、自分こそが衣都の一番の理解者だと自負するようになっていた。 (何をしているんだ、僕は……)  時々、ふと我に返り、唖然とすることもあった。  これまで散々薄情だの、人に対して無関心だの言われてきたというのに、自分でもおかしいと思う。  それでも、響は衣都のピアノを聴きに行くことをやめなかった。 「いただきます」  衣都は手を合わせると、小皿の上に置いたチョコレートをいつも嬉しそうに食べてくれた。  見物料の代わりに置き始めたチョコレートは、今やすっかり定着した。  始めこそ警戒していたが、同じことが何度も続くと、口に運んでくれるようになった。  逃げる子ウサギを手懐けたような、淡い嬉しさを覚える。  響にとってこんな経験は初めてだった。
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