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 あれから、どれ位の時が流れたのだろう?  地下深くに設けられ、静寂に包まれたシェルターの一室に佇む人影があった。  部屋の中央、様々なデータを投影する巨大なモニターが設置されており、あの日、世界中で同時勃発した核戦争の映像が投影されている。    それが焦げた大樹の幹から飛び立つセミのイメージと共に消失……    暗転した画面の正面に座っているのは、映像の中にいたのと同じ年老いた執事だ。    しかし、彼が操るカプセル状の機器=コールド・スリープ装置の中で横たわっているのは六才の少女ではない。  二十代前半に見える美しい女が、全裸で無数のプラグに繋がれている。 「もう夏も終わりです。今年の夢はどうでした、サオリ……いや、サオリお嬢様と呼ぶべきかな?」  独り言のように老人が呟く。  すると、反覚醒状態なのだろうか?  女も微かに反応し、しなやかな肢体をくねらせ、小さい吐息を漏らした。  一瞬微笑んだのも束の間、老人はすぐ険しい面持ちで画面上のバイタル・データを睨み、機器の操作を続ける。  カチャカチャと、細い指先が打つキーボードの打鍵音だけが屋内に響いた。  静かだ。  彼ら以外、ここにはもう誰一人生き残っていない。  そのせいか、機器を取り囲む部屋の内装は機能的な反面、至極殺風景に見える。    人の暮らしを偲ばせる物と言えば、大型キャビネットの上、少女時代のサオリと十才くらいの少年=トオルの写真が飾られているだけ。   「それにしても早いな。もう、あの日から六十年の時が経ってしまったとは……」  作業の手を止め、しばし写真を眺めた老人は、女と彼を隔てる透明なカプセルを手の平で優しく撫でた。  思えば、業火で地球が燃え尽きたあの日。  トオルは祖父の代から仕える資産家の娘・サオリと共に、勃発した災禍を避けるべく、避暑地別荘の地下シェルターへ逃げ込んだ。    だが、その際に彼の家族や、別荘に住まう他の使用人は悉く死亡。  少女も酷く傷つき、応急処置さえ十分にできないまま、トオルは彼女を冷凍睡眠装置のカプセルへ横たえた。    それ以外、救う道は無かったのだ。いずれサオリの両親が別荘へ逃げてくれば、治療の手立ても見つかると思ったのだが……    結局、別荘の所有者が訪れる事は無いまま、世界を核の冬が覆った。  果てしない氷河期の到来。  他に生き延びた者がいるのか、否か?    大気の放射能汚染に伴う通信障害が発生した為、どうしても確かめられない。    二人だけで生き延びる必要に迫られ、トオルは独力で様々な電子機器の操作方法を学んだ。  幸い、生きていくだけなら地下から出る必要は無い。  倉庫に大量の食糧が備蓄してあり、人工光で育つ農作物をフルオートで栽培可能なプラントも併設されている為、飢えるリスクは考慮しないで済む。  問題なのは、冷凍睡眠装置そのものだった。  使用者の健康チェック、及び機器のメンテナンスの為、一年に一度、コールドスリープをある程度まで解除しなければならないのだ。  その間、少女は束の間の夢を見る。  楽しい記憶を再現できれば良いのだが、残念ながら内容は胸に焼き付いた最後の記憶のみ。  あの夏の終わりへ意識がさかのぼり、当時起きた事を夢の形で再体験し続ける。 「本当に……いつの日か、君が目覚める時が来てくれたら、僕はそれだけで、何も要らないのに」  六十年以上に及ぶ歳月と孤独をトオルが耐え忍ぶ間、サオリも年を経ていった。    加齢が通常より遥かに緩やかだったのは、冷凍睡眠の影響なのだろう。フランス人形に似た可憐な容姿が、透明なカプセルの中でゆっくり大人の女性へ花開いていく。    だが、感情は幼いままだ。    いつの日か、彼女が正常な精神で目覚める為、変化に対応した若干の工夫が必要となる。  例えば、トオルがサオリの脳波へシンクロして夢の中に登場する際、老いていく彼の現実に合わせ、夢の中の姿も再調整しなければならない。  彼女の知る少年のままでいたかったが……  最初は父を演じ、それすら不自然な年齢に至った時、今度は祖父を演じる。その内、老執事の役割も板につき、自然に演じられるようになっていく。 「爺や……あの子を置いていかないで」  すっかり成長した声帯を通し、舌足らずな言葉が、美しい唇から洩れた。 「大丈夫だよ、サオリ。トオルはいつも傍にいる」  脳波のシンクロを切断した直後、もう声は届かないと知りつつ、語り掛けずにいられない。  束の間の夢とは言え、二人で過ごす夏の終わりがトオルにとってどれほど貴重な一時である事か……  だが、夢が必ず核戦争の勃発で終わる以上、常にトラウマが生じる。精神崩壊のリスクが生じてしまう。  だから消すのだ。  毎年毎年、記憶をリセットし、年を取っていく自分の姿だけ書き変えて、同じ出来事を繰り返す。  最初の二十年はそれで全く問題が無かった。  抹消しきれないリスクの存在に気付いたのは、五年前の夏の終わりだ。  微かなトラウマの残滓が、意識されない違和感としてサオリの中で蓄積されていた。それは今や消し難いノイズとして溢れ出し、夢の展開にまで影響を与え始めている。    修正とリセットに限界が来たのかもしれない。    このままでは、目覚めるべき時が訪れる前に、彼女の心が壊れてしまうかも?   「そうはさせない。僕が、この命に代えても!」  昏睡状態に戻ったサオリへ、何度繰り返したか分らない言葉をトオルは囁く。  いつかシェルターを出る日が来ても、その時の僕はもっと老いている。    今より弱く、今より醜く……  彼女が美しいままだったとして、その瞳に僕はどう映るのだろう。付き従う「爺や」の正体を知った時、どんな目でサオリは僕を……  怖い。  もうトオルにとってのハッピーエンドはこの世の何処にも存在しない。それでも歯を食いしばり、彼は記憶修正の作業を止めなかった。    どんな運命が待っていようと、地中を出たセミの幼虫は光を目指し続けるもの。    さぁ、未来の見えない今日を続けよう。    終らない冬がもたらす分厚い氷のその下で、愛する人は何度でも夏の終わりの夢を見るのだ。
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