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『就職のことなんだけどね、』
と、姉の夫は端的に切り出した。俺は、ただ黙っていた。
『東京以外の場所を、考えてみてほしいんだ。』
「え?」
一瞬なにを言われているのか分からなかった。東京以外の場所。俺はそんな場所に、この二十数年の人生で、行ったこともない。
姉の夫の声は、静かで、穏やかで、いっそ無機質だった。
『妻から、離れてほしい。……勝手なことを言って、ごめんね。』
妻、という単語と、姉の姿が結びつかずに戸惑ったのは、数秒間。その間、姉の夫は黙って俺の返事を待っていた。
「……姉は、なんて言ってるんですか?」
ぎりぎり喉から絞り出した問いに、姉の夫は凪いだ声で答えた。
『彼女は、なにも知りません。僕の勝手な希望だから。』
俺は、その言葉を信じられなかった。だって、姉の夫は姉の携帯から電話をかけているのだ。そこに、姉がいるのではないか? 姉は、すぐ側にいるのではないか?
「代わってください、姉に。……いるんだろ? 出ろよ!」
後半は、錯乱したみたいな声を出した自覚はある。妙に冷静な自分がいて、そいつが錯乱した俺を斜め上から見下ろしている。
「おい! 出せ!」
『祐樹くん、』
「いるんだろ!?」
『いないよ。彼女は、いない。』
「嘘だ! あいつがいないわけない! 裏切る気かよ、今になって!」
今になって、裏切る気か。一緒に狂って、死ぬほど抱きあったあのアパート。あそこを出る日にでもあっさり裏切ってくれていれば、俺だってこんなにならずに済んだのに。いっそ安心して、姉を送り出せたかもしれないのに。それなのに、最後の朝にさえ俺を求めた女が、夫の留守には必ず俺を家に引き入れた女が、どうして、今更。
さらに喚こうとした俺を止めたのは、姉の夫でも、姉本人でもなく、淳平だった。濡れた髪のまま、驚いたように部屋のドアを開けた淳平は、俺からスマホをとりあげた。あっさりスマホを奪われた俺は、それを取り返そうと一瞬もがいたけれど、身体の力が抜けてその場に蹲った。視界の端で、淳平が黙って電話を切るのが見えた。
無言の間が空いた。淳平は、俺のスマホを持ったまま、じっと俺を見下ろしていた。その顔は、泣いているみたいにも見えた。
「……勝手なことして、ごめん。」
髪、乾かしてくる。そう言って、俺に背中を向けた淳平の腕を、思わず掴んでいた。今、一人にされるのが怖かった。どうしても。
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