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「どうしたの? 祐樹から電話なんて、珍しいわ。」
姉が曇りのない表情でそう言ったから、姉の夫は姉に本当になにも伝えていないのだろう、と俺は思った。姉は、本当になにも知らないのだ。
けれど、内心ではそれを疑う俺もいた。姉は、本当はなにもかもを知っているのではないか。なんなら、夫に頼んで俺に電話をかけさせたのではないか。それは、俺が邪魔になって。
両方の考えが頭の中をぐるぐる回るから、一瞬にして俺は疲労した。なにも信じられない、という状況は、とても疲れる。
「……進路のことで、相談があって。」
姉を試すような言い方になった。試されていることに気が付いているのかいないのか、姉は俺の手を引いて畳の上に座らせた。二人分の体液が染みついた畳。汚い、と、反射的に拒否反応が出たけれど、それを姉には悟られないよう、俺は粛々と姉の手に従った。
「進路のことって、就職?」
姉が、どこか異国の言葉でも口にしているような、ふわふわした調子で言う。それもそうだろう。姉は高校を中退してすぐに、母の後を継ぐみたいに夜の店で働きだし、結婚してからは専業主婦だ。姉の人生には、進路、とか、就職、とかいう単語は一度も登場していない。
「……うん。」
おれが頷くと、姉はハンカチで自分の顔を扇ぎながら、ちょっと首を傾げた。
「私じゃ相談相手にならないかもしれないけど、話してみて。」
「……うん。」
姉の物言いは、完全に母親の皮を被っていた。すっぽりと、一部の隙もなく。俺は、そのことに苛立つ。俺が会いたかった姉は、この姉ではない。俺が話を聞きたかったのは、娼婦の目をして俺を誘ったあの姉だ。
「……地方に、行ってみようかと思う。」
姉の目の中を覗き込みながら、言った。その中に、はじめの日の姉が見えるのではいかと期待して。
「地方?」
なんのことだか分からない、といった感じで姉が首を傾げた。長い髪が揺れて、真夏の日差しを眩く反射する。
「うん。地方。」
俺は頷いて、その言葉だけを繰り返した、その『地方』がどこを指すのかも考えてはいなかったので、それ以上言うことがなかったのだ。
「……この家を、出たいってこと?」
言葉の意味を噛み締めるみたいに、姉が言った。俺は、曖昧に首を傾げた。俺が離れたいのは、なんだ。そもそも俺は、離れたいのか。この場所を。それとも姉を。それとも、どうしようもなく背負ってきてしまった父や母の思い出を。
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