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しばらく、どちらもなにも言わなかった。場を沈黙が支配した。真夏の日差しはまだまだ真昼の様相で、黄ばんだ畳を照らし出していた。
俺は、肩先に置かれた姉の指先を見ていた。マニキュアをしなくなったんだな、と、今更思った。夜の仕事をしていた頃、姉の爪はいつも色とりどりに彩られていた。それが今は、色を失って、こんなに爪が乾いている。
「祐樹、一緒に遠くに、行きましょうか。」
ぽつん、と、姉が囁いた。やはり、これまでのどんな姉の声でもない、色のない声をしていた。
一緒に、遠くに。その響きは、甘美だった。俺はずっと、それを望んでいたのではないかと思えるほど。姉と二人で、誰も知らない土地に行く。傍目からどう見えるかなんて関係ない。姉弟でも、母子でも、娼婦と情夫でも、構わない。ただ二人で暮らす。今なら俺だって、あの頃ほど姉に負担はかけないはずだ。子どもの頃とは反対に、俺が姉を養うことだってできるかもしれない。
泣きたくなった。ただこれだけのことをできずに、こんなに長い間離れて暮らしていたのかと思うと、二人で暮らした先に、セックスがあるのかないのかさえ、どうでもいいと思えた。離れて暮らすことが不自然だった。だって、俺たちはこの世に二人きりなのだ。セックスなんて、大した問題じゃない。
「行こう、姉ちゃん。」
俺は、肩に乗った姉の手を掴んだ。もう離さないと、くっきり思った。
姉が、頷いた。ゆっくりと、なにかを振り払うみたいに。
「荷物をまとめて来るわ。」
姉が言うから、俺は首を横に振って姉を引き留めた。
「旦那さんが家にいるんだろ?」
姉は少し笑ってそれを否定した。
「仕事よ。」
「……でも、もしかしたら戻ってくるかもしれないし。」
少しでも、姉を失う可能性のある行動は避けたかった。夫が戻ってこないとしても、ごく普通の生活を送っていたあのマンションに帰れば、正気に戻った姉は、弟と駆け落ちするだなんて話を、ただの笑い話に変えてしまうかもしれない。日常生活というのもは、多分それくらいの威力を持っている。
「大丈夫。夜中まで戻らないから。」
姉は、俺を安心させるみたいに微笑んだ。
「すぐ戻るわ。身の回りの物を少し、持ってくるだけ。」
「じゃあ、俺も行く。」
「祐樹も荷物をまとめておきなさい。」
「……でも、」
「大丈夫。」
すぐ戻るから、と繰り返した姉は、ハンドバッグを持って立ち上がると、あっさりサンダルを履き、じゃあ、後でね、と手を振って、そのままアパートを出ていった。
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