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夫は夜中まで帰らない。姉が言った言葉の中で、確かに本当だったのは、それだけだった。
真夜中、畳の上に膝を抱えていた俺は、スマホを鳴らした姉からの電話を、飛びつくみたいにして取った。
「姉ちゃん?」
姉が帰宅してから、何時間経ったか数えるのもやめていた。不安も消えて、あるのは虚無感だけだった。なにもなくなった胸の中で、姉からの電話はまだ嬉しいのが不思議なくらいだった。でも、確かに嬉しかったのだ。姉からの着信は。まだ、姉には俺と連絡を取る意思があると。
『……祐樹くん?』
しかし、電話の向こうから流れてきたのは、姉の声ではなかった。もっとずっと低く、疲れきった男の声。姉の、夫。
やっぱり姉は、現実に引き戻されたのか。
俺はそう思い、一思いに電話を切ろうとした。それを引き留めたのは、姉の夫の、どんよりと淀んだ低い声だった。
『待って。切らないでください。』
責められるのだろう、と思った。姉を連れ出そうとしたことを。姉を思いきれないことを。姉をまだ愛そうとしたことを。
それでも電話を切らなかったのは、姉の夫の声に、俺を非難するような色がないことに、一拍遅れて気が付いたからだ。
このひとは、ただただ疲れている。ずっと身体の奥の方、決定的な場所が、完全に疲れきってしまっている。
俺にも、その種の疲労には覚えがあった。昔、姉を抱いた後、身体の奥、決定的な、手の施しようがない所が疲れきって、どうしようもなかった。俺はそんなとき、いつもこうして、この畳の上に膝を抱えて、飽かず時を過ごした。
「……なんですか。」
白々しいだろうか。姉を、この人の妻を連れて逃げようとした男の、こんな台詞は。それでも、それ以上の言葉は思いつけなくて。
また、少し、無言の間が開いた。電話の向こうで、姉の夫が長い息をついた。ため息、と呼ぶのさえおこがましいくらい、長くて重い、呼気だった。そして、ぽつん、と、そのひとは言った。
『妻は、死にました。』
妻、という単語と、姉の姿を結びつけるのに数秒の時間がかかった。そして俺は、ようやく動揺した。
「え?」
妻が、死んだ? つまり、姉が? 俺の姉が、死んだというのか?
現実に引き戻された、と思っていた姉の白いワンピースを着た後姿が、急に真っ暗闇の中に消えていく。ぐるぐると渦を巻く暗闇の中に飲み込まれ、まっさかさまに落ちていく。
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