2人が本棚に入れています
本棚に追加
ママと娼婦
ベランダに出て、煙草を吸う。ねっとりと肌に絡みつくような湿気と熱気に、眉をひそめる。半開きにした窓の中からは、かちゃかちゃと食器が触れ合う音や、水の流れる音が聞こえてくる。姉が、料理をしているのだ。
熱帯夜だった。俺は、姉に吐き捨てたい衝動を抑え込む。
俺に襲われるとか思わないの?
分かってる。俺にはもうそんなことはできない。姉を、もう踏みにじれない。姉だってそのことは承知で俺を呼ぶのだろう。夫がいない、一人きりの晩には。
「祐樹。ごはん、できたわよ。」
中から姉が俺を呼ぶ。俺は煙草をベランダの床に投げ捨てて踏み消し、冷房の効いた室内に戻る。
「祐樹、ベランダに煙草を捨てないで。後で私が全部拾って捨ててるのよ。」
「……ごめん。」
リビングテーブルの上に並べられた家庭料理と、いかにも家族らしいお小言。昔、姉はどこまでも艶やかな女だったのに。
「早く座って。食べましょう。」
「うん。」
姉と向き合って、広いリビングテーブルにつき、こまごまと用意された料理に箸をつける。味は、分からない。どれも食べているのに食べていないみたいな、よく分からない感触で喉を通り過ぎる。昔から、姉と食事をするといつもそうだ。昔、というのは、姉と二人きりでこの世に取り残され、どうしようもない気分で肌を重ねていたころのことだ。姉は、思い出さないのだろうか。俺と、二人でいても。
「大学は、ちゃんと行っているの? 授業、楽しい?」
「ちゃんと行ってるよ。……まあ、楽しいかな。」
そう、と、姉は満足そうに微笑んだ。長い髪が肩の上で揺れる。姉の最終学歴は、中卒だ。高校の途中で母が死に、父親はとっくにどこかにいなくなっていたので、高校を辞めて働かざるを得なかったのだ。その後、俺は姉の庇護下で高校に通い、姉の夫の稼ぎで大学まで入学した。だから、報告義務はあると思う、なにに関しても。生きている際に生じるどんな小さいことでも、姉に報告する義務はあると。だって、俺の体の細胞一つ一つまで、姉の力なしでここまで生きてこられたものはないのだ。
「泊まっていくでしょう?」
姉がにこやかに言って、俺も頷く。当たり前の姉弟みたいに。
姉の夫が出張しているときは、こうして姉の家に泊まる。姉の夫は出張が多いので、月に一度か二度くらいは。夫婦の寝室には、入ったことがない。ただ、リビングに姉が用意してくれる俺用のマットレスで夜をこすのだ。姉の家で、安眠できたことは、これまで一度もなかった。
最初のコメントを投稿しよう!