事故

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事故

 大学の喫煙所で煙草を吸っていると、キャンパスの中を歩いている人の姿が目に焼き付いた。彼らは当たり前のように通り過ぎていく。僕はスマートフォンをポケットから取り出して、藤井詩織の連絡先をタップした。メッセージは夏休みの終わりで途切れている。彼女は交通事故に遭い、今は彼女の地元の病院で入院していた。  夏休みの終盤に交差点で事故に遭い、車椅子で生活しているらしい。僕はそのことを知って以来、彼女に連絡をするのを躊躇っていた。煙草を一本吸い終わると立ち上がり、午後の講義に出かけた。  この大学は音楽大学で、詩織はピアノ科、僕は作曲科だった。作曲科の同期は数人しかいないので、他の科の学生とも交流していた。大学に入学した頃の新歓パーティーで詩織と知り合った。  講義室までの道を歩いている間、この大学に来るまでの日々を思い出していた。高校に馴染めずに中退した僕はしばらくの間、実家の部屋で一日を過ごしていた。急に未来が無くなってしまった気がして、鬱屈した思いを抱えながら焦燥感がしていた。  講義室に着くと、隅の前の方の席に座った。講義は音楽史についてだった。ぼんやりと黒板を眺めながら、詩織のことを考えていた。  講義が終わると、廊下を歩いていたが、友達の中里修と会った。 「久しぶりだな」と彼は言った。 「久しぶり」 「今度の休みに詩織のお見舞いに行かないか?」  詩織が事故に遭ったことを教えてくれたのも修だった。彼は今も詩織と連絡を取っているらしい。修はこの大学のピアノ科で詩織の同期だった。  僕はしばらくの間、考えた後、「詩織は落ち込んでいるんじゃないかな」と言った。  すると修は「だからお見舞いに行くんだろ」と言った。  僕らはこの後予定がなかったので、構内のカフェテリアに行った。僕はアイスカフェラテを修はアイスコーヒーとサンドイッチを頼んだ。  席に座りながら、周りの学生を眺めていると、僕はまた高校生の頃を思い出していた。あの頃は自分がこの大学に来るとは想像していなかった。鬱屈とした日々の中で、時間があったので始めたのが作曲だった。小さい頃にピアノを習っていたので音符は読めた。 「それにしても残念だよな」と修はアイスコーヒーを飲んで、言った。 「車椅子でもピアノは弾けるんだろ?」 「ペダルは使えないし、以前のようには無理だろうな。たぶん詩織は諦めるしかないと思う」  音楽大学でプロになれるのは一部だ。その厳しさは痛感していた。
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