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「お待ち」
はっとして顔を上げると、湯気のたちのぼるカップと、いつものように美しく折り重なるミルクレープをトレイに載せた長瀬がいた。一応は「お客様」として接してくれているのか、音が立たないように、そっとカップとミルクレープをテーブルに置いてくれた。
黙ってそれを眺めていた私が違和感をおぼえたのは、皿の上に載っているミルクレープがふたつあったことと、私のカフェオレのカップの隣には、ブラックコーヒーの注がれたカップがあったことだった。私の他に客はいないのに――。
「ここ、借りるわ」
言いさま、長瀬はテーブルを挟んで私の向かいの椅子を引いて、ごく自然に腰を下ろした。ブラックコーヒーのカップを自分のほうにひったくっていく。しばらく席を立つつもりはない……とでも言いたげなその行動に目を丸くしながら、訊いた。
「なにしてんの。バイト中でしょ?」
「親に言って、シフト抜いてもらった。おれも勉強しないとまずいし」
「だからって、なんで私の向かいでやんのよ」
「笠木、英語得意じゃん。教えてもらおうかなと思って」
まだ一切カフェオレを口にしていないにもかかわらず、かぁっと喉の奥が熱くなる。そもそもが他人に物を教えることに不得手なのに、よりにもよってその相手が長瀬だなんて。
特に私の意向を勘案しようとしていないようなその口ぶりも、なんかムカつく。そこまで都合の良い女になった覚えはないんですけど。
とはいえ、その要求をぴしゃりとはねつけるほど私は鬼ではないし、そうはなれない。
特にたぶん、きっと、おそらく、長瀬に対しては。
私がこのお店に足を運ぶのは店の雰囲気が落ち着くとかなんだかんだと欺瞞弾を撃ってきたけれど、本当はきっと、そうじゃない。そんなの自分でわかってる。
わかってるけど、あと少し。
この気持ちを口に含んでも火傷しない温度になってから、じっくりと味わいをかみしめたい。
だから、今は息を吹きかけるくらいで我慢しておくことにする。
「どこがわかんないの」
「お、マジで教えてくれんの? ラッキー」
「あんね、私も自分の勉強があるんだからね。真面目にやんなかったらあんたの親にチクるから」
「はい、はい。わかっておりますですよ」
長瀬はニタニタしながら、英語の問題集をペラペラとめくりはじめる。明らかに使っていないのがわかる、ページをめくった跡がほとんどない問題集をにらみつけた。
ほんっと、なんにもわかってないよ、こいつ。
英語もわかんなければ、すぐ向かいに座ってる異性の気持ちさえ、これっぽっちもわかってくれていない。
英文法の前に知るべきことがあるだろ。健康な男子高校生として。
苦い気持ちのまま、カフェオレの注がれたカップの持ち手に指をかける。
思いの外まだ熱くて、即座に手を引っ込めた。
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