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勉強のやる気なんてそう長く保たないのは知っている。長瀬は私のレクチャーに生返事を繰り返した挙げ句、早々にシャープペンシルを放り出してスマホをいじっていた。そして私も途中から明らかに気持ちがダレてきて、やっとちょうどいい温度になったカフェオレを飲みながら、ミルクレープの解体工事に着手していた。
ふと、時折頭に浮かんできてはチャンスがなくて消えていく疑問を、私は長瀬にぶつけることにした。
「そういえばさ」
「ん?」
「このお店、ちょっと前から急に内装の感じ変わったけど、なんかあったの」
私の質問に、長瀬は「あー、それね」と軽い感じで笑っていた。
「一年前くらいから時々、親父が神妙な顔して言ってたんだよ。こんな古臭い店に今更客なんかどうやって呼びゃあいいんだ……って。そりゃあ古臭えからダメなんだろって言ったら、じゃあどうしろってんだって言ってくるからさ。だったらおれが考えてやるよって」
「へ? じゃあこの黒の内装って長瀬が考えたの?」
「考えたって言ったって、壁の色はこんなのがいいとか、それに合う椅子やテーブルはこれがいいんじゃないかとか、横から口出しただけだよ。もちろん金は一円も出してないし、なんなら今だってバイト代という名の小遣いもらってるし」
「……ふーん」
つまり。
この店は、ある意味、長瀬そのものなのだ。
黒が基調の内装もインテリアも含め、この店自体が彼の手掛けた作品の一種で。
そんな長瀬のつくった世界の空気感を、いつも私はコーヒーやデザートとともに味わっていて。
それを(心地よい)と感じていて。
その店の中で、彼のすがたをいつも、ずっと目で追っていて。
ということは……と思考をすすめた結果、導かれた答えを私は今、解答用紙の記入欄に――。
「――私は、好きだよ」
そっと書き入れた瞬間、長瀬が「え?」と訊き返しながらこちらを見つめてきて、急に我に返る。
まだだ。まだ、その時じゃない。機は熟していないし、コーヒーは蒸らしきっていないし、クレープは生焼けだ。こんな片手間じゃなくて、ちゃんとしっかり、時間をつくって伝えるべきだろう。冗談だと思われたらむかつくし、いま伝えたとしても、この鈍感男はきっと私のつまらない冗談だと思うに違いない。
だから。
「このお店、好きだよ」
あっそ、とさして興味もなさそうに、長瀬の視線はふたたび手元のスマホに落ちてゆく。
「好き」という言葉を黒くぐしゃぐしゃに塗りつぶすこともできず、意気地なしの私は、だまってもう一度教科書をひらいた。
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