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春の章 誕生日のピザ
桜の花が散った。散ってなお、桜の枝には桜花の色が残っている。新緑に隠れながらも。たとえば絵をかいて色を塗るなら、太い筆にたっぷり水を浸して、下地には淡いピンクとグレー。そこから鮮やかな緑の葉を重ねて……。
「ふうちゃーん、そろそろいいかな?」
茉莉花が庭掃除をする風に縁側から声をかけた。五月の日差しがまぶしくて、風はめをすがめた。散った桜の花びらを掃いていた箒をしまって、風は家の中に戻った。
「すごいよ、日向においといただけなのに、膨らんでる」
茉莉花の結んだふたつの髪がぴょんぴょんはねる。膨らんだのは、ピザの生地だ。四月最後の日曜日、晴れてよかったと風は思った。
「ピザって、うちで作れるんだね」
ふふふと茉莉花。今日は白いスエットのワンピースにパンツ姿だ。
「風に任せとけ。これでなかなか腕が立つ男だ」
風は苦笑しながら、手を洗ってから生地のガスを抜いた。生地を四等分にして、濡れ布巾をかぶせる。
去年、近所から山のようにいただいたトマトをピューレ状にして冷凍してあった。解凍して、オリーブオイルで炒めたニンニクと一緒にする。
「塩は入れ過ぎないで。弱火にしたら、木べらでゆっくりかき混ぜてて。焦がさないように」
風は茉莉花に鍋を任せて、玉ねぎとマッシュルームを薄切りにする。ベーコン、ピーマンの輪切り、水気を切ったコーン。トッピングに、あとは何が必要だろうか。
「茉莉花ちゃん、あと何かいるかな」
「パイナップル」
「え?」
パイナップルと、茉莉花はもう一度言った。彼女はパイナップル容認派だった。風は半分背筋を凍らせて、パントリーからパナップルの缶詰を持ってきた。
さて、と風は休ませていた生地の布巾を取った。生地は二回り近く大きく膨らんでいた。生地の一つをまな板の上で、くるくると回しながら、風は器用に生地を伸ばしていく。
「我が家でできる誕生日のおもてなしってこれくらいだけど、よかった?」
「百点満点だよ」
実際の誕生日はとうに過ぎている。今日は部活も休みということで、おじいが茉莉花を祝いたいと言ったのだ。
「じゃあ、オーブンも温まったから、ささっと作ろうか」
風が広げた生地にトマトソースを塗る。茉莉花が自分が食べたいようにトッピングを並べていく。できればパイナップルは控えめにしてほしいとの風の願いはかなわず、茉莉花はお構いなしに全面にパインを散らした。
「じゃあ、チーズを全体にかけて」
オーブンには一回に二枚しか入らない。焼きあがる前に、次を準備する。
「あ、いいにおい」
チーズが焼けていくにおいが、キッチンに流れた。いいことはいいけれど、椅子や本に匂い移りするのは困るから、換気扇を回す。
「飲み物、炭酸のがいい。わたし、買ってくる」
飛び出そうとする茉莉花を引き留めて、おじいがお小遣いを渡す。おじいは、茉莉花が来るときにはいつもポケットに小銭入れを忍ばせているのだ。そのことを知る風は、吹き出すのを我慢して茉莉花を見送った。
「おじいって、茉莉花ちゃんには甘いよね」
「いつも顔を見せてくれる曾孫だからな」
おじいには、五人の子どもと十人の孫、そして五人の曾孫がいるが、茉莉花の橋元家以外はみな遠方に住んでいる。
「それも、中学のうちだけかもね。ここが自宅と中学の中間点だから。二年生になったから残り二年弱」
「構わんさ。わたしもいつまでこの家にいれるか、わからんし」
おじいは七月になれば百一歳になる。今は比較的元気に過ごしているけれど、いつ何があるか分からない。それは肝に銘じておかなければならない。
「ただいまー」
息を切らして茉莉花が帰ってきた。近所の店まで走って行ってきたのだろう。まったく、子どもってやつは……風は茉莉花の屈託のない笑顔を見て、なぜだか泣きたくなった。
ピザは四枚焼きあがった。もともとそう大きくはないが、四等分に切って皿にのせた。
「炭酸のジュースなんて、何年ぶりかな」
おじいがグラスに注がれた、コーラをしげしげとみている。
「じゃあ、茉莉花ちゃん、14歳おめでとう」
風の音頭で、三人でグラスを合わせる。ゆっくり食べて、とおじいの皿に一切れ乗せる。風もおじいもパイナップルは避けられなかった。
茉莉花はひとりで大方食べてしまった。彼女の誕生祝なのだから、それでいいと風とおじいは一切れ、二切れ口にした。
茉莉花の本来の誕生日は、桜が満開だった。
「おじい、おばあちゃんの墓参り行くなら、連れていけるよ」
風がおじいに声をかけると、縁側の籐椅子に座るおじいは生返事を繰り返した。風はいいかげんしびれを切らしてしまったが年寄りにイラついてもしかたないことは、同居してから学んだ。
「おじいが茉莉花ちゃんに甘いのは、誕生日がおばあちゃんの命日と同じだから?」
「そうかもしれないな。おばあちゃん……寿さん、病気が見つかってから亡くなるまであっという間だったし、あのときは不幸が重なりすぎて、いまだに気持ちが整理できていない」
いまだに、といっても亡くなって20年は経っているのだが。
風は玄米茶を淹れると、籐椅子とセットの小ぶりなテーブルの上に置いた。なんだか話が長くなりそうだと思ったのて、風もお茶を入れたマグカップをもって、おじいの向かい側に座った。
「わたしは、寿さんの人生を食いつぶしてしまったんじゃないかと思っている」
「え?」
「いつだったかな、茉莉花のおばあちゃんにあたる美津子が高校生でお前の父親の凪が幼稚園に通っていたあたりかな。わたしは仕事に出かける前で、何かの拍子にいつも通り寿さんを【お母さん】って呼んだんだ」
「それはよくあることだろう。実家だってそうだよ」
風はお茶に口をけて答えた。おじいは背もたれから体をゆっくとり起こしてお茶に手を伸ばした。
「そしたらば、【わたしは、あなたの母親じゃありません!】って言って、割烹着脱ぎすてて家を出て行ってしまってな」
「それは……」
なかなかに激しい。
「一週間くらい帰らなかった。あとで聞いたら、女学校時代の友人とこへ行ってたって。旅館の女将してる人のとこに」
祖母は女学校へ通った人だったのだ。たしか、おじいと結婚するために中退したとか聞いた。
「うちの事はどうしてたの?」
「まあ、美津子がいたけど、わたしも学校を休んで家事をしたよ。朝から晩まで。家事の大変さが身に染みた」
おじいは教師の仕事を休んだ。だろうなあ、と風は思った。一人暮らしで一人分の生活と、複数人の家族とでは家事の量は格段に違う。ましてや学生や幼児がいたら、さらに大変さは増す。
「それで帰って来てから言われた。【家事をすることがどれほど大変か分かりましたか。わたしは結婚してから20年、毎日毎日家の事だけしてきた。わたしはもっと学校へ通いたかった。勉強がしたかった。わたしの時間を返して欲しい】」
泣かれた、とおじいはうなだれた。
時代のせいとはいえ、酷なことだったろう。風の記憶にある祖母は、料理も掃除も完璧だった。編み物、洋裁、和裁もできた。何もかも、きっちりした人だった。長い髪をきれいに結あげ、割烹着はいつも真っ白だった。
「戦争で、兵隊へ行く前に結婚させるという流れは、あまりに大きくて。今考えれば、茉莉花より何歳か上の少女を孕ませ、子どもを産ませていたんだ。異常だよ。寿さんは家のことは何でもできたし、育児もしっかりしてくれたけど、それは望んだことじゃなかったし、たぶん幸福はそこにはなかったんだ」
少し冷めたお茶をおじいは飲んだ。考えたこともなかった祖母の人生はオセロのコマのように反転していく。
「女学校で一番の生徒だったんだ」
時代が時代なら、師範学校までいっていただろうとおじいは言った。
「それからは、わたしも家事をするようになった。妻を【お母さん】とは呼ばず、名前で呼ぶようになった。寿さんが行きたいといった勉強会へは出席できようになった」
だから、父も基本母のことを名前で呼ぶのか。風は家の謎が少しとけて腑に落ちた。父も家事をやるが、それでも母と衝突ばかりしている。そのへんは相性なのかもしれない。
「病床の寿さんに申し訳なさのほうが先に立った。亡くなるときだって、きっと無念だったんじゃないかなと思った」
「だったら、よけいお墓参りをしたほうがいいんじゃない」
おじいは大きなため息をついて、湯飲み茶わんをテーブルに置いた。
「実はな、寿さんのお骨はお墓にはない。誰にも言わなかったが、海に散骨した」
「え、ちょっと待って。そんなの聞いてない」
風は思わず腰を一度浮かした。
「だから、誰にも言っていないって」
それなら、法事のたびにお墓参りしてたのには、意味がないのでは。
「だから、墓参りには行かなくていいんだ」
それに、とおじいは続けた。
「庭の、桜の木の根元にも、遺骨をいくらか埋めたから」
「ちょっと、それ、リアル桜の木の下には、じゃないの!?」
風はあせって湯飲みからお茶をこぼした。風が台布巾を取ってくる間、おじいは満開の桜の花を眺めていた。
「桜を見るたびに、寿さんを思い出す。寿の命日に生まれ茉莉花は、寿さんの生まれ変わりのように感じるんだよ」
風はもう墓参りのことはいいと思った。
それより、今夜は風も吹かないようだから、桜の木の下でおじいと酒でも飲もうと決めた。
「おじい、茉莉花帰るよ。おなかいっぱい、ありがとう! すごく楽しかった」
玄関先で茉莉花がおじいに声をかけると、おじいがなにやら封筒をもってやってきた。
「これ、ちょっとだけど、おじいから茉莉花へ」
「そんな、ピザ食べさせてもらったうえに」
「もらっときな」
風は茉莉花にすすめた。正直、あと何回おじいからもらえるか分からないから。
「ありがとう、おじい。今日は楽しかった。また金曜日に来るね」
茉莉花はおじいにハグをした。風は茉莉花の遠慮のない好意の表し方が羨ましくさえあった。
「おじいのプレゼント、なんだろうね」
家に帰るまで待ちきれない茉莉花は、途中の公園のベンチに風を誘って座った。
「わっ、五千円、と手紙かな。ふうちゃん、おじいの字が立派で読めない」
どれどれと手紙を渡された風は、おじいの文字を追った。
【茉莉花へ
十四歳、おめでとう。思い切り学んで、思い切り遊んでください。
昔の人の文章をお祝いに送ります。
前途は遠い、そして暗い、
然し恐れてはならぬ、
恐れない者の前に、道は開ける、
行け、勇んで、小さき者よ
おじいはきっと茉莉花が大人になるのを見ることはないでしょう。
でも、そうなっても、いつも茉莉花を見守るよ。
茉莉花の人生を歩みなさい。
おじいこと、葛城謹吾より】
読み終わると、風の心には温かいものが満ちて、あふれそうだった。茉莉花の頬には涙が幾筋も流れていた。
風は封筒に手紙をもどすと、茉莉花にわたした。
茉莉花は手紙を胸に抱いた。
行け、勇んで、小さき者よ……。
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