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「……行かなきゃ」
感傷的になっている暇はない。私にとってのこの街の夜はいつも戦いで、こんなふうに感傷的になっていられるようなものではなかった。
これからもきっと、ずっとそうだろう。
寝室へと続くドアを開いて、極力足音を立てずに中に入る。
自分以外の健やかな寝息を聞いて、無意識に肩から力が抜けた。
「……寝てる?」
息を殺すようにしてひっそりと声をかけたのは、その男から、私が何も言わずに家を出ることに不満を持っていると告げられたからで、決して本当に起こす気があったわけではない。
男は私の目論見通り、私がひっそりと声をかけても決して目を覚ますことなく、安らかな呼吸を続けるだけだった。
額から鼻筋、唇までの曲線が美しい。色濃く長い睫毛は綺麗なカーブを描いており、意志の強そうな眉は穏やかに伸びている。
一目で彼が安らぎの中にいることがわかるような寝顔だ。
この姿を写真に収めたら、いったいどれほどの価値がつけられるのだろう。それほどに貴重な寝顔を、彼は平然と私に晒しだしている。
「ねえ、やまと。私、行くからね?」
ほとんど気付いてほしくなくて、聞き取れるはずのない声量で囁いてから彼の髪を撫でる。
アッシュブラウンの髪は私のものと違ってハリがある。初めて触れたとき、ハリネズミみたいにちくちくすると言ったら、彼は少しだけ傷ついた顔をしていた。
――思い出さなくともよいことを思い出してしまった。
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