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翌日彼は身支度をして、まっすぐに玄関へと足を向けた。背筋がまっすぐに伸びた美しい背中が遠ざかる。私は沈黙したまま彼の後ろを追いかけて、靴を履き終えた彼が振り返るのをじっと見つめていた。
彼は彼の輝ける場所へ向かう。それこそが私の望みで、彼の喜びでもある。そのはずがどうしてこれほどまでに、心が落ち着かないのか。
「じゃあ、行ってきます」
「まって」
振り返った彼がその言葉をつぶやいた瞬間、唐突に理解した。
――お願いだから、どこにもいかないで。もう誰も、置いて行かないで。
喉元にこみ上げた言葉をかき消して、唇を噛む。
私はいつも、大切な人たちに取り残される。それがおそろしい。
人はいつもふいに命を落としてしまう。さようならを言う隙も与えずに、『行ってきます』と『おかえりなさい』の小さな隙間が命を奪ってしまう。
だからもう、二度と、どこかへ行ったりしないでほしかった。そう思うのに、同時に彼の光が、たくさんの人に見つめられて、認められる日が来ることを切に願っている。
相反する二つの感情が胸の内をせめぎ合って、結局笑みを張りつけながら口を開き直した。
「ううん。行ってらっしゃい」
「なんだよ」
「……気を付けていってきて、それで、ちゃんとここに帰ってきて」
どこにもいかないでなんて言わないから、どうかいつも、ここに帰ってきてほしい。
願いを込めてつぶやくと、彼はおかしそうに笑って私に小指を差し出した。
「とうぜん。早く帰ってくるわ」
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