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7  地下牢への階段はひやりとしていた。人が二人通れば一杯になるほどの細さだったが、ユリスが腕を組んでエスコートしてくれたから、アリッサは勇気が湧いて彼に続いた。 「見苦しいところで申し訳ありません、アリッサ嬢」 「かまいません。怖くはありません」  アリッサはそう言いつつ、ランプを自分の手から放さなかった。皇帝が所有する密かな地下牢への訪問はもしかしたら噂になかもしれないとアリッサは恐れた。しかも夜更けだ。何事かと貴族たちは憶測するかもしれない。しかし、道々、出会った人は一人もいなかった。牢にも酷吏が一人いるだけで、別段、変わったところはない。階段を下りると獄房は四つあったが、すべてが空で、一番奥の突き当たりだけが、厳重で、ドアがなかった。 「どうやら、囚人はバルコール侯だけのようだな」 「そのようですね、陛下」  鼻をつくアンモニア臭がして、カルデン卿が言った通り、衛生面が酷く悪いのが分かった。監獄は石が積まれ、窓のところだけが少し、鉄格子になっているだけで、みたところ窓もなかった。  ユリスとカルデン卿が格子の間から中を見た。アリッサもその後ろから恐る恐る中を覗いてみる。すると、灯りの向こうに髪が伸ばし放題の男が座っていた。手足には鉄の枷がされ、ぶつぶつとなにかを言っているが言葉を聞き取ることはできなかった。もしかしたら聖書の言葉かもしれなかったし、呪いの言葉かもしれなかった。 「おい」  ユリスが言った。男が顔を上げる。 「誰だ」  バルコール侯が訊ねた。 「皇帝陛下だ」  カルデン卿が言った。しばらく間があり、時を忘れないために壁に刻んだ数を数えると狂ったようにバルコール侯は笑い出した。 「あいつはいつは死んだのか⁈」 「あいつ?」 「あいつはあいつだ!」  おそらく先帝陛下のことだろう。アリッサは眉を顰める。カルデン卿は言った。 「正気を失っています。行きましょう」  彼はユリスを促し、背向けようとした。すると慌てたバルコール侯は枷を鳴らして格子まで来て、それを必死に握った。見た目は七十くらいだが、実際は五十代かもしれない。 「出してくれ」 「先帝の命令でここにいるのだろう? 出すことはできない」 「そんなはずはない。贈賄でここまでの仕打ちは違法だ」 「そうか? しかし、ここから出ればお前の口が軽いのを案じて塞ごうとする貴族は多いだろうな」 「ここにいるのは死んだ方がましだ」  ユリスは鼻で笑った。アリッサはもどかしくなった。しかし、バルコール侯はアリッサを見ると指差してケラケラと笑う。 「まだそんなに若いままなのか、殿下は。年を取ったのは私だけということか!」  マカルニアの王女、セシリアーヌとアリッサを混同しているようだ。否定しようとしたが、カルデン卿に制された。彼は静かに言った。 「ではセシリアーヌ殿下を知っているのだな?」 「ああ、ああ、そのせいでここにいるんでね」 「自分でよく分かっているようだ。贈賄などいいわけだ」  男は頭が痒いのか必死に掻きながら答える。 「そうさ。陛下はお怒りさ。私が告げ口したせいで、セシリアーヌと別れさせられたのだからね」  ユリスが黙っていられなくて低い声で訊ねた。 「それで、セシリアーヌ王女と父上はどうなった?」  すると、バルコール侯は混乱したように頭をかかって歩き回り始めた。そして激しくそれを振り、アリッサを指差す。 「セシリアーヌは死んだはずだ。なぜここにいる?」 「セシリアーヌが死んだ?」 「死んだ。死んだ。だから、皇帝は怒って――怒って――怒って――私を私を――」  バルコール侯は長い髪を掻きむしり、自分の唯一の持ち物と思われる、水が入った椀を蹴飛ばした。 「ルイのヤツも死んだはずだ。なんでセシリアーヌが――」  そこまで言って、はっと囚人は顔を上げ、アリッサの方を指差した。 「そうか、お前はセシリアーヌではないな。セシリアーヌの娘だな! 私を騙しおって!」  大きな声だったので、石でできた房に響き渡りこだました。男の破れた囚人服が、急に大きな動きをしたので、さらにびりっと破けた音がする。 「ルイとは誰だ」 「お前の父親が殺した男だよ」  今度はバルコール侯はユリスを指差した。話が飛んで一体どういうことなのか、推測が難しい。バルコール侯は正気を失っていないが、長い間人と話すことなく過ごしていたらしく、思考が上手く回っていない様子だ。 「もう一度聞く、ルイとは誰だ。貴族か」 「子爵だ。お前の父親に決闘で殺された」 「決闘で?」 「まぁ、皇帝が自ら決闘できない。アルバン伯が代理を務めたが――」 「なぜ、二人は決闘を?」 「そりゃ、セシリアーヌ王女が死んだからさ。それよりなんで私ばかりは話す? ここから出せ。さもなくば、私はこれ以上なにも話さない」 「そうか。それならいい。他を当たろう」  ユリスもカルデン卿も背を向けた。囚人と交渉するつもりはないらしい。アリッサとだけ、バルコール侯は目を合わせた。少し申し訳なさそうで、後悔を孕んだ目をしていた。だからアリッサは立ち止まって一歩、格子越しの男に近づいた。 「母は先帝陛下を愛していたのですか」 「……それは知らんが、皇帝は愛していたな。恋敵を殺すほどに」 「どういうことすか?」  アリッサはぎゅと手を握りしめながら訊ねた。 「あいつは結婚を反対されて、王女を妻にできなかった。王女は子爵と結婚しようとしたが、その前に孕んで子を産んだ。産後の肥立ちが悪くセシリアーヌは死に、死なせたルイをあいつは恨んだのさ。さあ、問いに答えた。一切れのパンをくれ、お嬢さん」  アリッサは後ろを振り返りユリスを見る。彼は無表情にバルコール侯を睨むと、アリッサの手を取って元来た階段を上がっていく。その足は速く、アリッサは息が切れるほどだった。カルデン卿が酷吏に「パンをやるように」と金貨を一枚置いて行くのが見えたが、暗闇の中にいるバルコール侯の姿はもう見えなかった。 「ユリス」  アリッサたちは牢の空気から逃げるように、温室の中に入った。いつの間にかカルデン卿はいなくなっていた。話の裏を取りに行ったのかもしれない。  温室の中は温かく、多くの草花が季節を問わずに咲き誇っており、宮廷に飾るもののほとんどはここで調達されるのだろう。よく手入れされている。見上げれば、ガラス張りのおかげで、月が見えてとても静かで、どこからか花の香りも漂ってきた。 「ユリス、どういうことだと思う?」 「バルコール侯の説明がすべて正しいとは思えない。投獄されていた期間が長すぎて、混乱もしているように見えた」 「ええ……」 「総合して考えると、先帝は皇太子時代にセシリアーヌ王女と恋人同士になった。しかし、バルコール侯の告げ口により、反対され、泣く泣く別れた。その後、セシリアーヌはルイという子爵と子どもをなす仲となったが、結婚せずに子を産み、亡くなった」  アリッサが続きを言った。 「そして、皇太子だった先帝はルイという人に怒り決闘することにしたけれど、立場上、お父さまが代わり――」  アリッサは続きを言いたくなかったが、ユリスが低い声で続けた。 「アルバン伯はルイを殺した。父上の代理で」 「……なんと言ったらいいのか分からない」 「父上はバルコール侯の行為を許せず、帝位についてから贈賄の疑いで投獄し、その後も釈放することをしなかった」  アリッサは倒れ込むように白いベンチに座り込む。 「わたしはお父さまの子ではなかったのね……だから補欠なんかにされたんだわ」 「アリッサ……」  力をなくしているアリッサをユリスは強く抱きしめてくれた。アリッサはしばし、されるままになっていたが、そっと腕を彼の背に回す。 「少なくとも俺は嬉しい。君が妹ではないことが知れて――」 「あなたを兄だなんて考えたことは一度もない……絶対にないって思っていた」 「よかった。本当に――君のことが好きだから」 「ユリス」  アリッサが顔をはっと上げる。 「好きだ、アリッサ。この言葉を言える時をずっと待っていた」 「でもあなたは皇帝で……わたしは姉の補欠で――」 「今、それを考えないしよう。一つの難関をクリアしたばかりなのだから――」 「そうね。そうね」  アリッサも強くユリスを抱きしめる。 「好き。わたしもユリスのことが好き。ずっとわたも言いたいと思っていたの」 「なら同じ気持ちなのだな?」 「ええ……」  アリッサは今はなにも難しいことを考えたくなかった。ただ、ユリスのことが好きだった。彼と一緒にいると心から落ち着けるし、温かく包み込んでくれているのが分かる。なにも繕うことのない自然体でアリッサはいられた。 「好き」  その瞬間だった。  ユリスの唇がアリッサに近づき、口つけをした。指を絡めた手がぎゅっとし、緊張で体が力んだ。しかし、ゆっくりとユリスが体を離すと、艶のある微笑みがあり、アリッサは赤面する。 「ユ、ユリス……」 「君を愛している……ただそれだけのこと。父上たちのようにはならない。『運命は奪い取るもの』なのだから。心配しないで俺を待っていて欲しい。君を皇太弟の後宮から必ず助け出す」 「分かった。待っている」  アリッサはユリスの言葉を信じた。
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