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8  次の日は朝から小雨がぱらついていた。午後には大雨となり、庭を散歩する言い訳は思いつかず、ガゼボに行くのをアリッサは諦めなければならなかった。ただ、恨めしげに灰色の空を見上げ、吐息を落とすばかりで、ため息ばかりがでる。  ――今頃、ユリスはなにをしているんだろう。政務をしているのかしら?  昨夜、調べたことの詳細をカルデン卿が詳しく裏を取ってくれているはずだ。その報告も聞きたかったのに、残念でならない。  ――ユリスに会いたいのに。  ところがそこに――。 「アリッサ!」  姉が突然、ノックもなしにドアを開けたのだ。昨夜の外出が知られたのかとひやりとしたが、どうやらそうではないらしい。姉の手には一通の手紙とおぼしきものがある。彼女はいつもの淑女らしさを失い、長いドレスをもどかしそうに走って来た。 「アリッサ! お願い、聞いてちょうだい!」 「お姉さまどうしたの? そんなには慌てて――」  アリッサの言葉にすぐにルシアナは口をしっかりとつぐむと、開けっぱなしだったドアの音を立てないようにそっと閉める。そして、アリッサの手を引いてソファに座らせ、囁くような声で言った。 「屋敷から知らせがあったの」 「なんの?」 「フィリペが生きていたって!」  アリッサは驚いた。姉の恋人で父に辺境に兵士として送られてしまったフィリペは一年も前に死んでいたはず。それが生きていた? 信じられない奇跡だった。 「うそ!」 「本当よ! ここに彼からの手紙がちゃんとある! 都に戻ってくるの!」 「まぁ! それでフィリペは無事なの⁈」 「左脚を負傷して、それで都に帰ってくるって、見て、これがその手紙よ。屋敷で私付きだった侍女がこっそり知らせてくれたの!」  フェリペが死んだというのは誤報だったのだ。  いつも冷静沈着なルシアナが心のそこから嬉しそうで、アリッサも彼女に笑顔が戻ってきたことを天に感謝した。しかし、彼女はアリッサの手を握ると思いがけないことを口走った。 「お願い、アリッサ。あなたのドレスを貸して」 「どうして? なにをするの?」 「どうしてもフェリペに会いたいの。お願いよ、アリッサ」 「…………」 「二人で異国に行くわ。誰も追ってこれないほど遠くにいくの」  ルシアナがこんなことを言い出すとは思わなかった。もし、姉が皇太弟の後宮からいなくなったらどうなる? 父は面目を失い、皇太弟は妃に逃げられたと腹を立てるだろう。世間はルシアナを批難し、残ったアリッサが妃になるほかないではないか。 「お姉さま……」  アリッサは戸惑いを見せた。いや、見せずにはいられなかった。自然と、姉から手が離れそうになって、先にルシアナが先に手をぱっと放した。 「ご、ごめんなさい……自分を見失っていたわ……ごめんなさい、アリッサ」 「お姉さま……」 「フィリペが生きていてくれただけでも喜ぶべきだったのに――高望みしてしまって……。後宮から逃げるなんてあり得ないわ……そう……ありえない……あり得ないのに――」  アリッサは姉を抱きしめた。皇太弟をルシアナはまったく愛しておらず、向こうもルシアナを一欠片も愛していない。そんな人物に利害関係だけで嫁いでしまった姉。一年後に逃げるチャンスがあるアリッサの方がずっと恵まれているのかもしれない。 「お姉さま、どうしたらいいのかわからない」 「アリッサ?」 「わたしも好きな人ができてしまったの……でもどうしたらいいんかわからないの」 「……私たち姉妹はどうしてこんなんなんでしょう」 「運命が私たちに冷たすぎるからだわ」 「そうかもしれないわね……」  アリッサは姉の手をもう一度取った。見つめ合う姉妹。 「慎重にしないと。逃亡しても捕まって終わりよ」 「そうね……国境はどうせ封鎖されるわ……」 「それにフェリペにも迷惑がかかる……下手をしたら逮捕されるわ……」  アリッサは考えた。そもそも、父が皇太弟派であることが問題なのではないか? ルシアナはすでに後宮入りしているが、婚礼の儀式はしていない。それをする予定すらまだ立っていなかった。ならば、まだ話が頓挫する可能性はなくはない。 「お父さまはなぜ、皇帝陛下ではなく、皇太弟殿下にお味方しているの?」  ルシアナは答える。 「それは皇帝陛下が貴族の利権を取り上げようとされているから――」  ルシアナはご婦人たちの会によく顔を出すから政治にも詳しい。しかし、アリッサには腑に落ちない。父は厳格な人で民のことを一番に考えている。なら、ユリスを支える方が父らしい。 「お父さまは騙されて皇太弟殿下の派閥に入ったのではない?」  ルシアナは首を振る。 「お父さまに限って騙されてなんてことはないわ」 「では脅されたんじゃ――」  ルシアナには言えないが、父はルイという名の子爵を決闘で殺している。決闘は国法で禁じられている。それを知られてしかたなく、協力させられているのではないか。  そしてアリッサは考える。ここで信じられるのはルシアナだけ。ルシアナにもアリッサしかいない。二人は決して反目してはならなかった。 「お姉さま」 「うん?」 「わたしたちは姉妹。団結して行動しないといけないわ」 「もちろんよ!」  アリッサはその言葉を聞くと、大きく息を吸ってから吐いた。 「だから、本当のことを言う」 「なに? どうしたの? アリッサ……」 「わたし、皇帝陛下を好きになってしまったの」 「まぁ! それは本当⁈ 好きな人って皇帝陛下だったの⁈」 「ええ。嘘じゃない。本当のことなの。ユリスもわたしのことが好きだって……だから、この状況の打開策は必ず見つかるわ」  ルシアナは自分も苦しい恋をしているというのに、アリシアを抱き寄せた。 「おめでとう、アリッサ。そしてごめんなさい。自分を見失いそうになっていた」 「そうなって当然よ。フェリペが生きていたんだもの。大丈夫。かならず、なんとかなるわ。まだ、正式な儀式は執り行われていないんですもの」  アリッサは少し考えた。なぜルシアナは皇太弟の妃に選ばれたのか。美しく聡明で従順だからだ。それを多くの人が評価していた。ならば――。  アリッサははっとなって姉の手をぶんぶんと上下に振った。 「お姉さまは、悪女を演じればいいのよ! うん、それがいい!」 「悪女を? え? どういうこと?」 「いつも聖女のようなお姉さま。だから、こんな結婚話が持ち上がってしまったのよ。でもお姉さまに裏の顔があったら? 皇太弟殿下は失望してきっと離婚したいと思うわ。そうじゃない?」  そこにドアがノックされる音がした。侍女頭だ。 「側室の方々がご挨拶にお見えです」  アリッサは思いっきり立ち上がると姉の腕を引いて立たせた。 「まずは、嫌みのオンパレードをしてくれた二人の側室をいびり倒しましょう」 「そんなの――悪いわ……できない」 「そんなこと言っていると、皇太弟殿下と正式な婚礼の日が来てしまうわ。ヴィクトリアに皇太弟殿下に嘆願してもらうの『ルシアナは悪女で私をいびっている。お助けてください』って。ね? 最高のアイデアでしょう⁈」  それ以来、ルシアナ・アルバンといえば、高飛車で嫌な女となった。今までのは猫を被っていただけで、本当の姿が露わになったと皆が震え上がった。 「黙りなさい。誰に向かって口答えしているの!」  茶器を床に叩きつけて侍女を叱りつけたり、側室たちに雑用を命じたり。妹のアリッサにさえ、平手打ちを食らわせたとか、食らわせないとか――。着るものも以前は淡いピンクやブルーだったのに、赤やどぎつい紫のドレスを仕立て、巨大な帽子に紫の薔薇と羽根をつけて歩いた。見るからに性格が悪くなり、眉はくの字、太いアイラインに真っ赤な唇。人はこうも変われるのかとアリッサをも驚かせた。  おかげで、それ以来、皇太弟殿下の姿をルシアナの部屋で見ていない。もともとルシアナに興味はなかったのに加えて悪評高くなったら、足が遠のくのは当たり前。他にも妃を数人、後宮にいれるらしいという噂を聞けば、ルシアナとアリッサは絶好調だった。 「上手くいっているわ」 「ええ……でも……やる過ぎじゃない? アリッサ」 「悪女を演じて、結婚をなしにされてもフィリペはそんなこと気にしないでしょう? だって本当のお姉さまを知っているんだから」 「そうね! そうね!」  アリッサが褒めるせいか、あるいは、今までの積もり積もった鬱憤を払うのが気分がいいのか、だんだんとルシアナの悪女姿も板についてきた。  ぱたぱたと機嫌悪く扇子を揺らす時のなんとも言えない恐ろしさとか、斜めから人を見下ろす目つきだとか、名女優だ。令嬢でなければ、きっとお芝居の世界に行っていただろう。 「ルシアナ様はまだ正式な妃でもないのに、少し態度が大きいのではありませんか」  それでも皇太弟の金庫男爵の娘、クレアーヌは皇太弟の強い後ろ盾があるので、ルシアナに対してもまだ強気だった。相変わらず、濃紺のドレスは胸が開いていて、大きなサファイアのネックレスを見せつけているのが、金満家の娘らしかった。しかし、こういう対立はアリッサが望んでいたことだ。彼女はしめしめと思いながら、少し虚ろな表情で、心配げに二人を見ていた。アリッサは姉に虐げられている妹を演じているのだ。 「ど、どうぞ……」  そんな一触即発の中、侍女たちは、恐る恐る金で縁取られたティーカップを卓の上に置くと逃げるように部屋を出ていってしまった。誰の仕業か知らないが、先日まではアリッサたちに聞こえるように噂話をしていたというのに、最近の侍女たちは非常に無口で、しおらしかった。  けれど、まだクレアーヌは健在だ。 「正妃面をして恥ずかしくはありませんの? 先日の茶会でもこの茶は不味いの、音楽は聞き苦しいのと散々文句をつけて。後宮には後宮の仕来りがございますのよ?」  案の定、ルシアナはむっとした表情をする。なかなかの演技だ。 「ただの側室の分際で、よくもそんなことが言えたものですのね」 「わたくしとて、子を産めば、妃になりあなたと同じ位になるのよ。そして息子が皇帝になれば皇太后。怖くはないのですか? 皇太弟殿下は昨夜もわたくしの部屋にお泊まりになったのに」 「たかが、金貸しの分際で大きなことを言うこと。皇帝陛下も皇太弟殿下もご健在の中、生まれてもいないあなたの息子の帝位を語るなんて不遜すぎるわ! 下がりなさい! この件は、皇太弟殿下にお伝えしておきます!」  おそらく、皇太弟ジュエルは自身の後宮のゴタゴタに嫌気が差しているはずだ。円満な後宮管理に適切なルシアナを選んだのに当の本人がめちゃくちゃにしたのだから。しばらくすると、他の側室のところにさえも姿を現さなくなった。 「作戦は成功ね!」 「効果が続けばいいけど……」 「大丈夫よ、弱気にならないで、お姉さま」 「聞いた? パーティーがあるらしいわ……否応なしに皇太弟殿下に会うことになる。演技だって見抜かれないか心配だわ」 「そんなことで、どうするの? お姉さま。フェリペが都に帰ってくる前に、ここを追い出されないといけないのに」 「そ、そうね。あまり時間がない……頑張るわ。それより、アリッサは? あの方に会えている?」 「ううん。でも今はいいの。きっとすぐに毎日会えるようになるわ」  アリッサはあのキスの夜以来、ユリスに会えていなかったが、少しも不安ではなかった。彼はどうやっているのかは知らないが、枕元にキャンディーを一つ置いたり、デスクの羽根ペンを新しいものに交換したり、小さな熊のぬいぐるみが鏡台に置いたりして、アリッサを楽しませてくれていた。まるで魔法使いの妖精のようだ。  今日は本がサイドテーブルに置いてあった。本をアリッサはあまり読まないが、恋の物語で、意地悪な姉が出て来る話だったので、アリッサは笑いを堪えるのに必死だった。  ――会いたい。  アリッサは紙の端にそれだけ書くと、本に挟んで元あった場所に戻した。きっと贈ってくれた人の元に戻るであろうから。  ――会いたい、ユリス。  その名前は決して口にはしない。けれど、アリッサの中では百万回と呟かれていた。
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