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5  翌朝、着替えをなんとか自分たちでし、顔を洗うと、ドアがノックされる音がした。アリッサが開けるとそこにはユリスがいた。皺一つない瞳と同じ青いジャケットに身を包み、完璧な皇帝の姿だ。騒動が終わりを告げたのだとアリッサは気づくと、思わず走り寄って抱きしめた。 「ユリス、会いたかった」 「俺もだよ、アリッサ」  彼は強く抱きしめ返してくれ、額にキスをした。 「あなたが無事か心配だったの」 「俺は大丈夫、イーザランがいたしな」  アリッサは頷き、もう一つの心配事を訊ねる。 「お父さまはどうなったか知っている?」 「具合が悪そうだが、宮殿に姿を現した。どうやら毒にやられたらしい」 「やっぱり……」 「会うか?」 「…………」 「会って、君の出生について聞いてみるか」  アリッサは瞳を上げてユリスを見上げた。長身の彼はアリッサを見下ろし、彼女の決断を待っている。けれど、真実を知るのはやはりアリッサは怖かった。 「不安なら、聞かない方がいい」 「……いいえ……しっかり父の口から経緯を聞きたいわ……あなたが案じていたように兄妹ではないかということもしっかりと明らかにしたいし」 「そうだな……それがいい」  アリッサは胸の金のネックレスを握り締めた。おそらく、彼女の決断をドアの後ろで待っていただろう父、アルバン伯が姿を現した。真っ青な顔なのは、毒のせいだろう。アリッサとルシアナは思わず抱きしめた。 「大丈夫なの? お父さま? 毒っていうのは本当?」 「あ、ああ。大丈夫だ。少量飲んだだけだ……途中ですぐに気がついた。ただ、吐き気があっただけで心配ない」 「吐血したって、叔母さまが――」 「毒を吐いたんだ。問題ない」 「よかった……」  父はそれよりとソファを見た。 「座ろう。いつまでも陛下を立たせておくのは失礼だ」  アリッサがユリスを見ると「そんなことはないよ」と微笑んでくれたが、アリッサはすぐに肘掛け椅子を勧めた。ルシアナと叔母はその部屋から離れ、父と三人だけとなる。 「聞きたいことがある。アリッサのペンダントのことだ」 「…………」  アルバン伯は少し肩をうなだれた。 「アリッサは亡命王女セシリアーヌの娘か」  ユリスは直球に訊ねた。 「はい」  父は最低限の言葉しか発しなかった。 「父親は誰か。父上か」 「違います」 「では誰か」 「……ワガード子爵ルイです」  地下牢で聞いた名前と一緒だった。アリッサは黙っていられなくなって訊ねた。 「生母と先王陛下は恋人だったのですか。それがなぜ、セシリアーヌ王女はワガード子爵と――」  父は疲れている様子だった。水を勧めると一口飲み、言い淀むようにしてからまた一口飲んだ。 「初めから話さねばなりません。初めから――。とても長い話です」  アリッサは肘掛け椅子に手を伸ばしてユリスと繋いだ。 「あれは我々がまだ二十歳にもならぬ時です。マカルニアが滅び、一人の美しい王女がこの国に亡命してきたのです。活発でとても魅力的な人でした。すぐに皇太子であられた先帝陛下の目に留まりました」 『君を愛しているよ、セシリアーヌ。必ず正妃にする。必ず』 『きっと無理よ。わたしはしがない滅亡した国の王女。ここでは厄介者でしかない』 『私が嘘をついたことがあるか? 愛する君以外を妻にはしない』  そう、先帝はセシリアーヌに約束したという。セシリアーヌもそれを信じ、二人は愛の誓いのペンダントを交換した。 「しかし、セシリアーヌの予想通り、二人の恋は終わりを告げなければならなかったのです」  父は両手を固く握りしめて言った。 「マカルニアは敗戦国。戦勝国であるナバニア国が王女の引き渡しを求めてきたのです」 「それで……どうなったんですか、お父さま?」  アリッサは思わず口を挟みかけたたが、ユリスがぎゅっと手を掴んで止めた。アリッサは逸る気持ちを抑えて次の言葉を待った。 「皇太子であった先帝陛下は先々帝陛下と取り引きをしたのです。自分がセシリアーヌを諦めるから、引き渡しだけはどうかやめて欲しいと。そして先帝陛下は妃を何人か娶られた」 「母は? セシリアーヌ王女は?」  アルバン伯は苦しげに告げた。 「四年、先帝陛下を待った。四年もの間、誰も愛さず、誰のアプローチも無視して、花盛りを過ぎて行った……」  アリッサには母の気持ちがわかる気がした。どうして愛した人を諦められよう。忘れられない人を思い続けるのはどれほど苦しかったか。時はきっとあっという間だったはずで、自分の花盛りなど頓着しなかっただろう。 「その四年の間、献身的にセシリアーヌ王女を支えてきた男がおりました」 「ワガード子爵、ルイ……」  ユリスが呟くようにその名を言った。 「さようでございます、陛下。ルイは私と先帝陛下の親友で、ともに学んだ学友でもあります。先帝陛下が皇太子の時分にはセシリアーヌ王女への恋文はこの男が使者となりました。しかし、この四年の間に先帝陛下は二人の御子に恵まれ、はたからみれば幸せな人生を歩まれておられたのです」  アリッサは思った。母はどんなに絶望しただろうか。恋人に忘れ去られ、自分だけが覚えている――そんなことは苦しすぎたに違いない。 「セシリアーヌ王女は言いました『このペンダントを返して欲しい』と」  アルバン伯の目がアリッサの胸元に向けられた。 「しかし、そんなことをすれば先帝陛下のご勘気を被るのは必須。私は陛下のご気性をよく存じ上げていました。皇帝陛下の前でこのようなことを申し上げるのは不謹慎ではございますが、先帝陛下は誰も愛しておられなかったのです。セシリアーヌ王女以外に。ただ、ただ、自分が皇太子から皇帝になる日を辛抱強く待ち、セシリアーヌ王女も同じ思いだと信じていたのでした」  しかし、セシリアーヌ王女は不安だった。恋人には妃が何人もいて、子どももいる。そんな状態で、どうして信じて待てるだろうか。 「話をルイに戻しましょう。彼はセシリアーヌ王女の信望者でした。心より愛しており、彼女が望むなら、愛の手紙を恋敵に届けもしました。やがて、セシリアーヌ王女も心を開いてゆき、その献身的な愛に応えたいと思ったのです」 『もう忘れるべきだわ。いつまでも思っていていい人じゃない』 『いいや、きっとあなたをお迎えに来られる。もう少しの辛抱です、セシリアーヌ王女』  そんな会話を父は立ち聞きしたという。つまり、ルイはセシリアーヌの想いの成就を願っていたのだ。しかし、状況はどんどん悪い方に向かう。 「皇太弟殿下の生母さまがセシリアーヌ王女のことを聞きつけ、毒殺しようとしたのです。ルイは恐れ始めました。彼の愛するセシリアーヌ王女が殺されるのではないか。このままでは危険が襲いかかるのではないか。先帝陛下と関わる限り、その脅威はまた訪れる可能性があると」 『異国に逃げましょう』 『異国とはどこ? わたしはナバニアにはいけないわ』 『どこかずっと遠くです』  セシリアーヌ王女は首を縦に振らなかったという。それはルイのためでもあった。 「そのころです。先帝陛下が帝位に就かれたのは。まだ完全に実権を握ってはいらっしゃらなかったですが、親政を行うのは時間の問題でした」  しかし、その頃にはセシリアーヌと先帝陛下が別れてから五年の月日が経っていたという。 「ルイは勇気を振り絞って、自分はセシリアーヌ王女と結婚したいと告げたのです』  それはしかし、却下された。だが、同時期に長子であるユリスを産んだ皇太后を正妃にすることが決まってしまった。先帝を帝位に就けるのに尽力した一族の娘だったから。 「先帝陛下はセシリアーヌ王女との約束を果たせないまま、彼女が新たな出発をすることも拒んだのです」  アリッサはなんと利己的だと思ったが、恋とはもしかしたらそういうものかもしれない。幸せにすることが叶わないのなら、手を放すべきだとわかっていながら、そうできないのだ。 「ルイとセシリアーヌ王女は正式な結婚することができませんでした。それは批難を受けるものでした。先帝陛下はお怒りでしたが、口には出してはおっしゃいませんでした。ご自身でも五年という歳月がどれほどセシリアーヌ王女に長かったのかわかっておいでだったのです」  アリッサは目が熱くなるのを感じた。二人とも愛し合っていたのだ。しかし、どうすることもできない。離れる決意をしたセシリアーヌ。しかし、もう一人は手を離せない。 「しかし、アリッサを……もうけ、世間に非難されようとも二人は幸せそうでした。ですが――お産でセシリアーヌ王女が落命されると――」  その時の辛い気持ちを思いだしたのか、父、アルバン伯はうなだれ、顔を伏せた。 「父は怒り、決闘を申し込んだのだな?」 「はい。ご存じでしたか」 「バルコール侯に聞いた」 「まだ生きていたとは思いませんでした……」  父は顔を上げた。迷いはない顔だ。 「決闘を皇帝陛下自身で行えません。私が志願いたしました。ルイもそれを望み、マスケット銃でけりをつけることとなったのです」  アルバン伯の右手が震えていた。まるで今、そのマスケット銃を手にしているかのように。  決闘は郊外の森の中と決め、見届け人をそれぞれ一人ずつ立てた。十月の正午のことだ。白樺の木が紅葉し、はらはらと葉が舞っていたという。青い草で足元はおぼつかず、革の靴が前日の雨で汚れたのをアルバン伯は気にした。死ぬにしろ、生きるにしろ、紳士たるもの、見苦しくあってはならないと思ったからだ。 『では三を数えた後に』  一、  二、  三、 「私は撃ちました。しかし、ルイは撃たなかった。撃てなかったのではなく、本当に撃たなかったのです」 『なぜだ、なぜ、撃たない⁈』  倒れルイに転がるように走り寄ったアルバン伯はそう言って体を揺すぶったと言う。 『セシリアーヌ王女がいない世界にどうして止まれよう? それにどうして親友の君を殺せよう?』 「誰よりも優しい男でした」 「…………」 「ルイは三日ほど苦しんで亡くなった」  アリッサは実父の死の顛末に言葉が発せなかった。 「遺言がありました」  アリッサは、涙を拭うアルバン伯を見た。赤い目をしていた。アリッサの実父を殺したことに今も苦しんでいるのだ。 「『あの子にはあの子の運命に出会って欲しい。僕はあの子の幸せだけを望んでいるんだ』と」 「…………」  実父の言葉の温かさになんの言葉もアリッサは出なかった。 「私はアリッサを引き取り、妻と自分の子として育ていることにしました」  アルバン伯の顔は暗い。ユリスが言った。 「もうなにも驚かない。言ってくれ」  アルバン伯は手を握りしめ、どう切り出していいのか分からない様子になった。それでも勇気を振り絞ったのか、顔を上げた。 「五年前のことです。先帝陛下が亡くなる前にその枕元に呼ばれたのでございます」  室内は暗く、悪臭がし、貴族たちの多くがとなりの部屋で「その時」を待っていたという。どんよりとした部屋には蝋燭が一つ。重厚な中世の寝台に横たわる絶対の王はアルバン伯に言った――。 『遺言する。アリッサを私の息子と結婚させるように』 「まるで呪いの言葉のようでした。私が殺した親友の意思にそれでは反してしまう。しかし、先帝陛下もまた私の親友であり、主君だったのです」  アリッサはそれでわかった。  なぜ、父がアリッサを補欠にしたのか。  二人の親友の遺言を両立させるためだ。  実父、ルイは『運命に出会って欲しい』と言い、先帝は『息子と結婚させろ』と言った。補欠ならば、もし運命がそこになければアリッサは後宮を出て、本当の愛を見つけられる。 「アリッサは実の娘ではありませんが、可愛く、大事に育てました。『幸せだけを望む』と言った親友の言葉通り、好きなことはとことんさせてやりました。いつしか運命の人を見つけて幸せになる――そういう未来が来るとばかり思っていたのです……」 「でも、なぜ俺ではなく、アリッサをジュエルの後宮に上げたのだ」  ユリスは不満げに言った。アルバン伯は首を横に振る。 「そうはできません。陛下の妃は何人も殺されています。アリッサのことも愛しておりますが、私の娘のルシアナもまた大切な娘です。危険はおかせませんでした」  それはそうだ。当然だ。二つの遺言を両立させるためには、皇太弟派にならざるを得なかったのだ。 「しかし、私は神に誓って謀叛には加担していません。皇太弟も私をそこまでは信用していませんでした」  アルバン伯は立ち上がって、アリッサの前に跪くと、手を握った。 「すまない、アリッサ、すまない……」 「お父さま」  アリッサにとって父は目の前の人だけだ。ぎゅっと抱きしめれば、長年の苦しみがあふれ出たのか、アルバン伯から嗚咽の声が漏れた。親友を殺してしまった罪、それをどう購おうと苦しんでいたにちがいない。 「お苦しみにならないで。お父さまが悪いんじゃない。運命が厳しすぎたのだわ」 「お前を運命から守ってやりたかった。それなのに――」 「運命は自分で切り開くもの、そうでしょう? それにわたしにはユリスもいます。なんとかなります。信じてください」  努めて楽天的な声を作ったアリッサは泣く父の肩を撫でながら、ユリスを見た。彼は少し悲しげに微笑み、アリッサも同じ顔をした。愛とはなんと難しいものなのだろう。しかし――とアリッサは思う。ユリスとならきっと乗り越えられる。死んだ実父が願ったようにいかなる『運命に出会って』も正しく生きることができる――。 「愛している、ユリス」 「俺もだよ」  過去を聞いても、二人の運命は揺るぎない。絶対に――。
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