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1章 行儀見習い?1話
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石造りの豪奢なアルバン伯の邸宅では笑い声が聞こえた。
広々と見渡すかぎりの庭では、若い紳士と令嬢、十五人ばかりが華やかな絹の衣の裾を翻してベルメル(ゲートボールの原型の打球)に興じているのだ。
蒼い芝生に入道雲が見える青い空の下で、黄色のストライプドレスを着た十九歳のアリッサ・アルバンが特に注目を集めていた。
「アリッサ、集中しろ」
「アリッサ、あなたならできる」
「慎重に慎重に」
応援する友人の紳士令嬢は、思い思いの励ましの言葉をかけたが、すでに真剣な眼差しで、木槌を握る彼女の耳には届いていない。
対戦相手は百戦錬磨の公爵子息、サー・ロイドだ。少し気取った髭を持つ、この人に勝てた者はかつて誰もない。皆の注目が集まる。点差は二点でここが逆転の大きな山場だった。
アリッサはツバの大きい帽子を少し持ち上げると栗色の髪を少し見せ、真剣な面持ちになると、一球打った。気持ちいいカンという高い音が響いたと思うと、それが見事にゴールに入り、周囲から歓声が上がる。
アリッサは髪が乱れるのも気にせずに飛び上がって喜び、翡翠のような瞳を輝かせた。友達の令嬢たちも抱きしめてくれ、勝利を祝う。
「ついに、サー・ロイドを破った強者がでたぞ」
「アリッサ、おめでとう」
「ありがとう、皆」
アリッサは大仰にお辞儀してみせ、サー・ロイドとは固い握手を交わす。低身長の彼女は男性と並ぶと凸凹だが、心の内では負けなかった。ベルメルに負けたサー・ロイドもさほど嫌な気持ちになっていないようで、良きライバルができたという顔をしている。アリッサは屋敷の方を指差した。
「お姉さまに知らせてくる。ついにわたしが一番になったって!」
アリッサは木槌を持ったまま走り出し、チェンバロの音がする屋敷の方へと向かう。皆が、そんなアリッサを笑って見送ってくれたので、手に持つ木槌を振り返した。
そして、アリッサは息を切らせたまま、大理石のバルコニーへと走り、金色のドアノブを回してガラス戸を大きく開けた。
「聞いてください!」
すると、驚いた顔の貴婦人たちの顔が並んでいた。二十人以上か。皆、アリッサの突然の登場に唖然としていた。しかし、彼女は気にせずに言った。
「わたしが一番だったんです!」
叔母がそれに渋い顔をする。
「アリッサ、行儀が悪いですよ」
「ええ、ええ、でも、わたしがベルメルで一番だったんです!」
呆れた叔母がもっと厳しく言ってやろうと思ったのか、朗読していた本をサイドテーブルに置きかけたのを、ゲストの一人が腕を引いて止める。
「アリッサですもの、許して差し上げて」
そう、これはアリッサの「いつものこと」なのだ。行儀が良かったことなどほとんどないが、それに慣れてしまっている周囲は「アリッサだから仕方ない」と首をすくめるばかりで微笑ましく思う。
「さあ、さあ、お入りなさい。喉が渇いたでしょう? 紅茶はいかが?」
いつも、そんな風に、誰かが必ず取りなしてくれる。ベルメルの木槌は侍女が受け取り、アリッサは部屋に招き入れられた。退屈だった夫人たちは、輪の中に彼女を入れてくれた。
「サー・ロイドに勝ったのはわたしが初めてなんです」
「サー・ロイドの腕前は有名ですもの」
誰かが言うと、アリッサは大きく頷く。
「次は絶対に狐狩りでもわたしが一番になります」
皆が笑った。アリッサには無理だという意味と、アリッサはやりかねないという期待でもあった。しかし、叔母はまだ怒っていた。彼女が口煩いのは、アリッサのためだと知っているけれど、まったくもって閉口する。代わりにチェンバロを弾いていた姉のルシアナが立ち上がってアリッサの背を撫でた。
「汗を掻いているわ。着替えないと」
「平気よ」
「風邪を引くといけないわ。それに皆さま方に失礼よ。晩餐もあるし、そろそろ着替えておいた方がいいわよ」
アリッサは肩をすくめる。姉のルシアナは絹系のように美しい金髪で誰よりも礼儀を重んじる。顔もアリッサの丸顔と違って顎がすっとした美人である。人は彼女を他人行儀で冷たい印象だと評するけれど、それは見た目だけで、中身はやさしく、アリッサのよい姉だった。
「アリッサ、少しはルシアナを見習いなさい」
「叔母さま、お姉さまのようになるのはとても無理だわ」
後から入って来た友人たち三人の令嬢がアリッサの腕を掴んだ。
「ごきげんよう、皆さま」
「とても楽しい試合でしたのよ」
「アリッサの活躍ぶりをご覧に入れたかったですわ」
三人は口々に言い、興奮の眼差しで見回した。
「さあ、着替えに二階に参りましょう」
ルシアナが令嬢たちを促す。背中から叔母の小言が聞こえた。
「アリッサとルシアナはまったく似ていないわ。アリッサはまさに我が一族の黒い羊です」
「ルシアナのような令嬢はそうはいませんわ。望みすぎというものです」
「ええ……でもあれでは、嫁にもらってくれる家はありませんわ」
貴婦人たちがうむうむと頷く。アリッサにとってはいつものことだ。「完璧」な姉と跳ねっ返りのアリッサ。彼女自身も姉のようにないたいとは思っているが、貴婦人たちと紅茶を飲みながらの詩の朗読に付き合うよりは、若者たちと庭でベルネルをする方が百倍楽しいし、皆もアリッサがいるからここに集まっている。
「お姉さまも、あんなおばさんたちとつまらない付き合いなんてしてないで、皆と遊べばいいのに」
友人の令嬢たちがそれぞれ着替えに行くと、アリッサは自分の部屋でルシアナに小声で言った。ルシアナとてまだ二十一。若者と遊ぶ方がずっと楽しいはずなのに、社交界の噂話と夫の愚痴を言い合う会で美味しくもない紅茶を飲むのは、なぜだろう。
「わたしはいいの。それより、アリッサ、あなたよ」
「わたしがなに?」
着るものに頓着しないアリッサにルシアナがブルーのドレスを選んでくれた。侍女たち数人がかりで着付けると、ルシアナが髪を梳きながら言う。
「結婚話がちらほら出ているって聞いたわ」
「わたしはいいわ。お姉さまが先でしょう?」
「…………」
アリッサはそれで自分が失言してしまったことに気づいた。彼女の恋人フェリペは、屋敷の護衛で、雇われ人だった。父に二人の関係が知られて、辺境の戦地に送られ、死亡通知が来たのはまだ記憶に新しい。
「ごめんさい、お姉さま」
「いいの……いいのよ……」
それでアリッサは姉がベルメルに興じない理由が分かった。彼女は黒衣を着ずとも、喪に服しているのだ。そして気持ちもまたベルメルなどには向いていない。明日でたしか、亡くなって一年となる。
「少しだけでいいの。叔母さまを喜ばす程度にお行儀よくしてね。特に人前では。いい? あなたの評判に関わるわ」
「評判なんてどうでもいい。もう悪い評判は立っているんだから、今更よ」
姉は肩をすくめて吐息をこぼした。
「さあ、もう晩餐よ。晩餐の席ではお行儀よくしてね」
「分かっている、お姉さま」
しかし、結局、晩餐の席でもアリッサは話の中心になってしまった。なにしろ、侯爵家のパーティーで公爵閣下に挨拶するときにアリッサがばさりと帽子を落としてしまった話を皆が聞きたがったからだ。叔母以外のすべての人が爆笑し、その場にいたかったと言い合った。
それは政治的な話――皇帝陛下と皇太弟陛下の諍いなどよりずっと面白かったのだろう。アリッサの失敗話の伝説はいくつもあり、四十人ばかりの客たちは、時に眉を顰め、時に笑い、彼女の話に夢中になった。
しかし、アリッサが化粧を直しに部屋を出ると、ちょうどベルメルを一緒に遊んだ紳士たちがアリッサのことを話していた。柱の陰で聞き耳を立てると、いつもの姉とアリッサの比較の話だ。
「結婚するなら、アリッサとルシアナとちらがいい?」
「そりゃ、ルシアナだろう」
「俺もそうだな。ルシアナは完璧な淑女だ。従順で夫の言うことを聞く。頭もいいし、立派に家を切り盛りしてくれるだろう」
「でも、アリッサといる方が楽しいのは間違いないね」
「妻に必要な要素はどれだけ従順かということだ。ルシアナは美しいし、なんの文句もつけようがない。アリッサは――分かるだろう?」
勝手なことを言っている。彼女は憤慨したが、男たちの会話は終わらなかった。
「ただ、ルシアナの完璧さは鼻につく。あの目に見つめられると、なぜか見下されているような気がするのは気のせいか」
「まぁ、それはあるな。アルバン家の娘たちはどちらも魅力的だが、一長一短だ」
ふんとアリッサは鼻を鳴らした。だが、ここで突っかかるほど子どもでもない。背を向けて歩きだせば、姉がいた。姉もまた話を聞いていたのだ。
「気にしては駄目よ」
「気にしてなんてないわ」
言葉ではそう言ったが、拗ねたようにアリッサは言った。ルシアナは少し厳しい顔をすると手燭を彼女に渡した。
「それより、明日、お父さまが大切な話をするそうよ」
「なにかあったの?」
「とにかく大切な話。だから、もう寝なさい」
アリッサは姉の腕を掴んだ。
「明日はお姉さまがお化粧をして」
「あの人たちの話を真に受けているの?」
「わたしはただ――綺麗になりたいの」
「十分に綺麗だわ。アリッサの笑顔は誰よりも輝いているもの」
アリッサはそれ以上なにも言えなくなって、廊下を自分の部屋へと急ぐことにした。侍女が先導し、男たちがシガーとウイスキーを飲む部屋への間を通り過ぎる。飲み過ぎた紳士たちは声高に皇太弟殿下の方が立派な方で、皇帝がどれほど残虐な人物であるかを話していた。それは全くもってつまらない話で、アリッサはあくびを噛みしめて通り過ぎた。
――ああ、やっぱり明日はお姉さまにお化粧してもらって、少しは美人に見えるようにしよう。あの男たちをぎゃふんと言わせてやるんだから。
アリッサは姉への憧れと少しばかりの劣等感をそう言って、締めくくった。
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