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半年後――。
青い芝生の上で真剣な面持ちでベルメルの木槌を持つ、黄色いドレスのアリッサの姿があった。白い帽子に緑の瞳を輝かせ、大きな瞳と生き生きした頬、集中しすぎて少し開いたままの唇が快晴の今日の陽に燦めいていた。
――これを決めれば優勝よ。
ふうと息を吐き、止める。周囲にも緊張が走り、静けさが訪れた。風が南から吹いてきて、芝生をさらさらと揺らす。
――今よ。
勢いよく木槌で球を打てば、高い音を立ててゲートを潜った。
「やった!」
今や都一のベルメルの腕前であることは自他とも認めるところだ。アリッサは、遠くで腕を組んでそれを見つめていたユリスに木槌を振って勝利を報告した。そしてすぐに駆け出して、彼の元に行く。
皇太弟ジュエルの謀叛事件で、多くの貴族が関与していて罰せられた。皇太子派でも関わりのなかったものたちは地下牢から釈放されたが、有罪と決まった者たちはバルコール侯の仲間となって日を見ることのできない身になったが、自業自得というものだ。
皇太弟ジュエルは廃位された上、庶民となり、「念願の」母親と生活をすることとなった。残念ながら、田舎家での軟禁ではなく、地下牢でだが、二人が仲良くやっているとはアリッサは聞かない。
アリッサの父、アルバン伯は、厳しい取り調べの結果、謀叛事件とは関係がなかったことが証明された。どうやらアリッサが皇帝に近づいていたため、信用されず、皇太弟の作戦に加えられなかったようだ。アリッサはそれに心底ほっとしていた。
「ユリス!」
「アリッサ、少しは周りに花を持たせてやらなければ。一人勝ちではないか」
ユリスは半ばあきれ顔でアリッサにハンカチを渡した。彼女はそれを木槌と交換し、額を拭きながら瞳を輝かせる。
「八百長だなんてしたら、それこそ、つまらないでしょう?」
「まぁ、そうだけれどな」
ユリスは木槌を侍従に渡すと、アリッサと腕を組んだ。ちらりとそれをアリッサが彼を見ると、ユリスは足を止めて彼女の顎を指で掴む。
「なぜ、侍従を見る?」
「え? 別に理由はないけど? 見かけない顔だなって思って――ただそれだけよ?」
ユリスが大きなため息をついた。
「君は忘れているけれど、僕は先帝陛下の子だ。だれよりも一人の女性を思い続けるタイプの人間なんだ……」
「だから?」
「だから――」
ユリスは少しキリリとした眉を寄せて、懇願する瞳になった。
「俺以外を見ないでくれ」
かぁっとアリッサは紅潮した。確かにユリスは先帝の息子だ。間違いなく。独占欲が激しく、アリッサを溺愛して離さない。そして彼自身、アリッサとの出会いを運命だと信じていた。アリッサは公衆の面前で恥ずかしげもない台詞を言う人に口をパクパクさせてなにも答えられなかった。
「ベルメルだって、本当は禁じたいくらいだ。君が他の貴族と楽しげにしている姿を見ると俺は――」
「考えすぎよ、ユリス。わたしの運命の人はあなただもの。たとえ、誰の隣にいようと、わたしたちは番なの。離れられない運命。だから安心して。ね?」
「番か――なるほどな」
小鳥が青い空の下、木から木へと飛び去っていくのユリスは長め、安心したのか少し力を抜いた。
「ああ、そうだ」
そしてユリスは思いだしたように切り出した。少し芝居がかったいい方だった。なにか、特別なことを言おうとしている時の彼の癖である。アリッサはガゼボの中に入って、太陽の光から逃れると、彼の手を引いてベンチに座らせた。
「どうしたの?」
「君からずっと頼まれていた件がやっと解決したんだ」
「なに? わたし、なにか頼んだ?」
ユリスがアリッサの手を握る。
「ルシアナのことだよ」
「まさか――」
「そのまさかだ」
アリッサは立ち上がろうとして、ユリスに座るように促される。
「早く教えて、ユリス!」
「教会が同意した。ルシアナとジュエルはなんの関係もなく、次の結婚にも差し障りがないことをね」
アリッサはぱっと顔を明るくさせ、目を潤ませた。あの謀叛騒動で、ルシアナは連座を免れたのはユリスの力によるものだ。しかし、教会はまだルシアナとジュエルが儀式を執り行っていなかったにもかかわらず、まったく関係がなかったかは疑わしいなどと言い出し、戦地から戻ったフェリペとの結婚に難色を示した。
「教会はルシアナに修道院に入るようにとまで言ったのよ……」
「ああ。でももうそんな必要はない。ルシアナは好きな人とどこへでも行けるんだ」
「ユリス!」
アリッサは強く愛する人を抱きしめた。
「ありがとう、ユリス」
「君のためならなんてことないよ」
「お姉さまは知っているの?」
「ああ、午前に手紙を書いた」
アリッサは唇を尖らす。
「それを知っていて、午後までわたしに教えてくれなかったの? わたしがお姉さまに伝えたかったのに」
「君には大事なベルメルの試合が控えていたからね」
アリッサは肩をすくめた。ベルメルに浮かれていたのは事実だ。なにも言い返せない。しかし、芝生の向こうからパラソルを優雅に差した姉と、軍服姿のフェリペが見えれば、そんなことはどうでもよくなる。アリッサはユリスに視線を向けた。
「さあ、行っておいで、アリッサ。二人に祝いの言葉を言わなければ」
「ええ、ええ! ありがとう、ユリス!」
アリッサは坂を転げるように芝生の坂道を走った。そのせいで帽子が風で飛んだけれど、それさえもどうでもいい。両手を広げるとルシアナも大きく手を肩の高さに上げる。
「お姉さま!」
アリッサはルシアナの胸の中に飛び込み、再会を喜んだ。どれほど、ルシアナがフェリペと結婚したいと思っていたかを知っている。こうして夢が現実となるのは、素晴らしいことだ。姉の肩越しに、以前より肩幅が広がり、がっしりとした体つきになったフェリペがいた。髭を綺麗に剃って日焼けしている。眉の上に少し傷があるが、戦争の傷は彼の野生的な魅力を損なってはいなかった。
「おめでとう、お姉さま」
「ありがとう、アリッサ。あなたと陛下のおかげだわ」
アリッサは姉の両手を握り締めると、訊ねる。
「お姉さま、これからどうするの?」
「フェリペは除隊することに決まったの。お父さまが領地の近くの土地を持参金代わりに分けてくださるというから、そこで農場でもやりながら暮らすつもり」
「お姉さまが農場を?」
「初めは見よう見まねかもしれないけれど、私はなんでも器用にこなせるタイプだわ」
アリッサは微笑み、また強く姉を抱きしめた。
「確かにお姉さまはなんでもできる。フィリペのためなら悪女にもなれる」
「お願い、それはもう忘れて」
姉は片目を瞑って見せ、ユリスがこちらに近づいてくると、フェリペとともにお辞儀をした。「これが、かの有名なフェリペか。ルシアナが、ジュエルを見ても心が動かなかった理由が分かったよ」
ユリスはそんな冗談を言った。皇太弟ジュエルは美男だったが、どこまでも皇族的で気品を重んじた。フェリペはアリッサたちの屋敷でえ仕えてきた頃から、乗馬が似合う褐色の肌を持つ、美丈夫だ。ジュエルとは正反対。活動的で、行儀作法は知らないが、人の心は分かる男で、ルシアナのような純粋な人が惚れるのは当然だと言えた。
「この度のご尽力、感謝いたします、陛下」
フェリペが頭を下げた。ルシアナが言葉を加える。
「そして、アリッサのことをくれぐれもお願いします」
「ああ、もちろん。俺の命に代えてもアリッサを守ると誓うよ」
ルシアナはほっとした顔をフェリペに向け、彼もまた優しい瞳をルシアナに返して見つめ合った。二人が愛し合っているのは明らかで、それはアリッサを優しい気持ちにさせ、実のところ、皇太弟の事件が起こったことは悪いことではなかったのではないかとまで思ってしまう。
「ガーデンパーティーをやっている。二人も楽しんでくるといい」
ユリスがベルメルの大会が開かれていた賑やかなな方を見た。紳士淑女の姿があり、帽子があちこちに並んでいる。もうすぐ昼だから軽食の時間だ。ルシアナは目を伏せ「では失礼いたします」とフェリペとともにその場を辞した。残ったのはユリスとアリッサ。彼は手を伸ばして、黄色い木香薔薇を手折り、帽子を落としたアリッサの髪に飾った。
「帽子はどこかしら。おてんばでごめんなさい」
「謝る必要はない。俺はそういうアリッサが好きだから――」
彼はしばし、アリッサの長く整った指に触れていたが、その甲に接吻した。向けられた視線の艶のあることと言ったら、アリッサを赤面させるのに十分な魅力があった。それは毎日されていることではあったが、二人にとって毎日が「恋の始まり」なのかもしれない。
「訊ねたいことがある、アリッサ」
「うん?」
ユリスがゆっくりと跪いた。アリッサはわけが分からず、彼を見下ろす。すると真剣な眼差しがアリッサを見上げ、彼の青い瞳の中に自分がはっきりと映し出された。
「アリッサ・アルバン、俺の皇后になってくれないか」
「…………」
アリッサはあまりのことに言葉を失う。いつかは訊ねてくれる問いだと信じて待っていたけれど、もっとずっと先のことだと思っていた。アリッサは半分取り乱し、乱れた髪を慌てて片手でなでつけながら、なんと答えたらいいのか分からなくなった。
「わたし――」
「愛している。アリッサ以外を娶らないと誓う。父の過ちも繰り返さない」
「…………」
「悲劇は一度でいい。これからは幸福の時代になるんだ、アリッサ。だから、うんと言ってくれ、愛しい人」
ユリスの決意は確固たるものだとそのはっきりとした語感から感じられた。すると、慌てていた自分をすっかり忘れ、アリッサは、跪く彼をさっと抱きしめた。熱い抱擁はやがてキスとなり、永遠の愛の誓いとなる。
「大好きよ、ユリス」
「君以上の人はいない……」
「はい。わたし、アリッサ・アルバンはあなたの妻になります!」
宮廷の庭に風が吹き込み、青い空に白い雲が漂った。愛――それはとても難しそうではあるけれど、愛に生きるのは、この風のように爽やかだろう。
了
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