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2  アリッサは翌朝、一番にダイニングに到着した。亡き母の肖像画が正面に飾られ、彼女が好きだったという草花の風景画がその横を飾る。会ったことはないが、美しい人だ。アリッサには似ていない、金髪の人で、三人目の子どもをお産でなくなったという。 「おはよう、お母さま」  アリッサはいつものように朝の挨拶を母にして、自分の席に着席した。次に姉が現れ、黙って彼女の隣に座り、微笑を向けた。最後に入ってきたのが父の  アルバン伯だ。寡黙で厳格、なにを考えているか分からないほど鋭い思考をしている。アリッサは姿勢を正した。 「おはようございます、お父さま」  父は機嫌が悪そうだった。姉の挨拶に「うむ」と答えただけで、バターナイフを手に取る。父は朝、あまり食べない人で、パンを数切れ、バターをつけて食べるだけだ。  アリッサも昨夜の晩餐の名残が胃にあったので、パンを一切れ取り、ミルクをもらった。片や、晩餐では淑女らしくあまり料理を口にしなかった姉には、パンだけでは足りないようで、あっさりしたアントレメ(香草入りオムレツ)を一つ遠慮がちに食べている。  そして静寂だけが、朝日が差し込めるこの部屋に満ちた。  この家では、アリッサが口を開かなければ、誰もしゃべらない。黙々と食事の味なども感じることなく咀嚼するだけの時間となる。アリッサはため息をつきたくなった。話題にできそうなことは昨日、言い尽くしてしまったし、立ち聞きしてしまった紳士たちの噂話をこの場で披露するわけにもいかない。しかし、珍しく父が口を開いた。 「よい知らせがある、アリッサ」 「なんですか、お父さま」  父は口を拭いていたナプキンをテーブルに置いて言った。 「ルシアナの嫁ぎ先が決まった」  はっとアリッサは驚いて息を飲んだ。見れば姉は青い顔をしていたが、驚いている様子はない。以前から話はあったのだろう。アリッサだけが知らなかったのだ。 「お父さま……でも……だって……お姉さまは――」 「口答えは許さぬ、アリッサ」  アリッサは父に反抗したかったが、厳格な家長にはさすがにそれ以上言えず、怒りを抑えた声で訊ねた。 「……お相手は誰ですか」 「喜べ、皇太弟殿下だ」  アリッサは一瞬、硬直した。が、姉のためにナプキンをテーブルに叩き付けた。それだけは許せない。 「皇太弟殿下ですって⁈ 皇族の方は、複数の妃を娶ることが許されているではありませんか。それは酷すぎます!」 「だからなのだというのか。将来は皇后も夢ではない」 「お父さま!」  始終、アリッサはあれやこれやと父に反論していたが、当のルシアナは黙ったままだった。アリッサは訊ねた。 「お姉さま、お姉さまはどう思っていらっしゃるの?」 「……よいお話だと思うわ」 「なぜ……そんなことを言うの?」 「皇族に嫁げるなんてそうないことなのよ、アリッサ」  アリッサは姉にも父にも失望して、その場を去ろうと立ち上がった。しかし、父のアルバン伯は思いがけないことを言う。 「待ちなさい、アリッサ」 「…………」 「お前も姉を助けるために後宮に介添人として赴き、ついでに一年間の行儀見習いをするように」  アリッサはそれこそあり得ないと思った。完璧で美人の姉が皇太弟の妃に選ばれたことは、ショックなことではあるが、姉のような美貌の令嬢には起こってもおかしくない縁談だ。だが、おてんばで有名すぎる自分が、後宮で行儀見習いなど想像もできない。 「お父さま!」  父は話は終わったとばかりに立ち上がる。アリッサはその腕を掴んだ。 「絶対に嫌です。断ってください」 「そなたの行儀の悪さは都中の貴族が知っている。このままでは嫁ぎ先も見つからない」 「…………」 「それとも、アリッサ。孤独な後宮に姉を一人で後宮に行かせる気か」  父の目がアリッサを射貫いた。 「姉を支えてやろうという気概も優しさもないのか」 「…………」  アリッサは振り返って姉を見た。ルシアナは不安そうな瞳でアリッサを見る。後宮に行くのが不安なのか、アリッサに断られることを心配しているかは分からなかったが、とにかくルシアナがこんな風に自分の感情を露わにすることは少なかった。 「わたしは――」  アリッサは腹が立った。今日は姉の恋人、フェリペの一周忌だ。なぜ、そんな時に父は結婚話を決めるのだろう。アリッサはとにかく、あらゆる理由で父を批難したかったが、アルバン伯の大きな手がアリッサの肩に載った。 「アリッサ。もう決まったことだ」 「どうしてなにも相談なく、決めてしまわれるのですか。酷いです」 「アリッサ。口答えをするのか」  アリッサはぐっと歯を食いしばった。父は横暴でいつも反論を許さない。 「ルシアナを助けてやれるのは、お前だけだ」  それはそうだとアリッサも思う。姉妹はいつだって助け合うものだ。こんな困難な時は特に――。しかし、アリッサは後宮には行きたくなかった。息が詰まる仕来りと礼儀作法、人間関係の中でどう振る舞っていいかなど、想像もつかないのだから。 「アリッサ……」  ルシアナが、父を責めるアリッサを止めようと袖を引く。 「でも――お姉さま……」 「もう半年も前から話があったの……あなたに言わなかったことは謝るわ」 「お姉さまはそれでいいの?」 「もう決めたことなのよ」  アリッサは驚き、口も利けなかった。 「アリッサはどうする?」  嫌だという言葉が喉まで出かかった。しかし、そんなことを言えば、姉を一人、見知らぬ後宮へと見送らなければならないし、利己的だ。出したい言葉をぐっと堪えた。 「行儀見習いってなんですか」 「宮廷の礼儀を学ぶことだ。将来、ルシアナが皇后になったとき、お前の甥は皇帝になるだろう。そうなれば、叔母がみっともないと言われてはならない」  それはそうだ。身内に恥を掻かすことはできない。今は若いという理由で目を瞑って貰えているが、あと数年もしたら皆が厳しい目でアリッサを評することだろう。それに――父には逆らえない。彼はこの屋敷の絶対君主で、厳格な人物だ。アリッサのわがままを決して許してはくれない。 「わかったな、アリッサ」 「……はい」  アリッサは絞り出すように合意の言葉を口にした。それでも、姉がほっとした顔を見せると、自分の決断が正しかったことに気づく。たった一年だ。一年だけ我慢すれば、また自由の身になれる。その頃にはきっと姉には子どもがいて、一人ではなく、寂しい思いなどしていないに違いない。 「わかりました。お姉さまを助けます」  アリッサは父の目を見て言った。  夏の暑さを忘れ、木々が紅葉した秋、十月の午後――。  姉の後宮入りは慌ただしく支度され、今日、馬車で後宮へと向かうこととなった。ドレスは百枚ほど誂え、高価な装飾品がいくつも買われて、桃色のドレスに身を包む姉の胸にはルビーのネックレスが飾られている。  一方、アリッサはライトブルーのドレスを着ていた。顔を動かすたびに揺れるアクアマリーンの少し控えめの耳飾りをし、母の形見のロケットペンダントを垂らしていた。装いは文句はないが、やはり心は晴れずに、いつもの笑顔は消えて緊張してしまう。 「大丈夫、そんな顔をしないで」  ルシアナは以前からこの件を知っていただけあって、もう腹をくくっているようだ。アリッサの帽子のリボンを結び直してくれたが、アリッサは不満だ。 「お父さまもお父さまよ。わたしにはギリギリまで教えてくれなかった」 「それは――他の介添人を探していたんじゃないかしら? そうすればアリッサが皇太弟殿下の後宮に行く必要もなかったから……」  アリッサは姉に向き合った。 「後宮ってどんなところ? 殿方は出入り禁止って本当?」 「そうらしいわ」 「皇太弟殿下は他に妃をお持ちなの?」 「いいえ……」 「よかった!」  しかし、ルシアナの顔が曇っている。なにか良からぬことがあるに違いない。 「どうしたの?」 「先に言っておくわ。あとで知らなかったってまた言われると嫌だもの」 「なんなの? お姉さま?」  ルシアナはため息をついた。そして車窓の向こうをちらりと眺め、彼女のお気に入りの帽子屋を通り過ぎると俯いて言う。 「皇太弟殿下にはすでに側室が二人いるの」 「え?」  アリッサは驚いて声を上げてしまった。 「しぃ、アリッサ」  姉が咎めたので、慌ててアリッサは口を押さえ、囁くようなルシアナの声を聞く。 「一人は銀行家の男爵の令嬢」 「ええ……」 「もう一人は――」  姉が言葉を切った。もどかしくてアリッサは身じろぎをした。 「なんなの? はっきり言って」  ルシアナは更に声を潜め、姉はおもむろに言う。 「娼婦だったらしいの……」  アリッサは瞠目し、言葉さえ出なかった。 「宮廷ではなにがあるか分からないわ。なにがあっても驚かないで」 「驚かないでいられると思う?」 「少なくとも、そう努力して、アリッサ」  きつくルシアナが言ったので、アリッサはまったく自信がなかったがコクコクと頷いた。そして、宮殿が見えてくると二人は言葉さえ出さなくなった。  アリッサは無言のまま宮殿を見つめる。黒い鉄柵に黄金の玉の着いた鉄塀の向こうに、噴水庭園があり、その正面に巨大なシンメトリーの宮殿がある。丸いドームが中央にそびえ立ち、窓がずらりと並んでいる。白亜の建物に紺碧の屋根はよくあっており、見る者を圧倒する威厳があった。 「わたしたち――今日からあそこに住むの?」 「そうよ」  アリッサには鉄塀がまるで牢獄のように見えた。華麗で荘厳。ただし、いったん、そこに足を踏み入れれば、一年もの間、出られない。 「お姉さま、やっぱり逃げていい?」 「逃げたいなら逃げなさい。馬車を止める?」  すんなりと受け入れられてしまったから、アリッサは首を振った。 「ごめんなさい。ただ、ちょっと怖じけずいただけ」 「私も怖い」 「お姉さまが? いつも毅然としている、お姉さまが? 宮殿が怖いの?」 「いいえ……自分の運命が怖いの」  ルシアナの目が宮殿を映し、そして馬車は赤い軍服姿の門兵に守られている門を通り過ぎた。門柱がそびえ立ち、大きく開いた扉が、アリッサを沼の底へと引きずり込むようだった――。
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