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3  馬車を下りた瞬間から空気が違った。  香水の匂いだろうか、ふんわりと薔薇の香りがして、優雅な気分にさせるものの、侍従たちは完璧なお辞儀をし、一糸乱れぬ動きでアリッサたちを迎えた。   アリッサは皇太弟が姉を迎えるとばかり思っていたので、冷たい対応だと思ったが、「それが宮廷の仕来りなのよ」と教われば、つまらない決まりだと思ったし、いったいいくつの仕来りが、ここにはあるのだろうかと途方に暮れる。 「どうぞ」  巨大な玄関ホールは遠くから見えた半球型のドームの下にあり、美しいフラスコ画が描かれている。古代の神々を描き、天上世界へと導かれる――そんな巨大な絵だ。ぽかんと立ち止まって見上げていると、ルシアナにアリッサはスカートを引かれた。 「口を閉じて、アリッサ」  慌てて彼女、はきゅっと唇を結んだが、すでに周囲には見られていた様子だ。あきれ顔と嘲笑、そして微笑ましいと思ったのか、くすりと笑っている者、さまざまだ。だが、この宮殿に初めて足を踏み入れて、アリッサのようにならない者は少ないだろう。  金の燭台に美しい曲線を描いた脚付きの置き時計。蔓を描いた柱頭。大理石の真っ白な床に、異国の花々が象嵌された家具――どれも一級品で、伯爵令嬢たるアリッサも見たことがないものばかりだった。 「こちらです」  しかも長い廊下には赤い絨毯が敷かれ、女神が灯りを持っている像が並んでいる。ちらりと開けられたドアから見えた広間はまばゆいばかり。巨大なシャンデリアがいくつも天上から吊る下げられ、燦々と光が窓から差し込んでいた。  そして案内されたのは、宮殿の北東。小さな噴水がある庭に面した一階の部屋だった。アリッサはバルコニーに繋がるガラスドアを両手で押し開けた。いい風が入る。どこか緊張していた空気が少し和らぎ、肩の力が抜けた。 「ありがとう」  振り返れば、ルシアナは説明を侍女頭から聞いていたところで、礼を言っていた。部屋に残されたのは、侍女が二十四人。それぞれになにかしら違った仕事があるようで、誰それは髪を結う係、誰それは、湯殿の手伝い、掃除、などなど、説明を侍女頭がしていたが、アリッサは聞いていなかった。追い追い、覚えればすむことだ。そもそも二十四人の名前を一度で覚えるのは不可能だ。丁寧なルシアナと違って端から覚える気はない。  代わりにアリッサは、室内を歩き回り、ドアというドアを開けてみる。 「見て、お姉さま、こっちにも部屋がある」  部屋は五室あった。居間にダイニング、書斎にルシアナのベッドルームにアリッサの部屋だ。アリッサの部屋には大きな天蓋付きベッドに書斎代わりの机と本棚があった。すぐにアリッサはベッドに飛び込んだ。 「うん、ちょうどいい固さ」  アリッサははしゃいだが、ルシアナはドアのところで眉を寄せていて立っていた。慌ててアリッサは女は起き上がり、曲がった帽子を直す。 「良さそうなところですね、お姉さま」 「皇太弟殿下に感謝しなければ」 「ええ、ええ。本当にそうですね」  アリッサは周囲を見回しながら、気のない相づちを打った。妃が来たというのに、顔も出さないのは、仕来りとはいえ、とても冷淡に感じる。しかも、二人の招かれざる客が、彼の代わりに挨拶に訪れた。 「ようこそ、宮殿に」  にこやかに現れたのは、側室たちだ。二人とも二十代半ばから後半くらいか。化粧のせいで年齢は推し量れなかった。  濃紺のドレスにサファイアのネックレスをした女がクレアーヌ。資産家の男爵令嬢だという側室だ。確かに貴族なので奥ゆかしそうではある。ルシアナを立てたのか、地味なドレスの色だけれど、それとなく高価な物をひけらかすようなところが見苦しかった。丸顔で少し形の悪い鼻をしていて、見た目は平凡な人である。  もう一人は、ヴィクトリア。異国から来た高級娼婦だったという人だ。目が覚めるような明るいピンクのドレスは、胸が大きく開いており、自慢したいだけある立派なバストを強調していた。 「ご挨拶ありがとう、どうぞお座りになって」  席を勧めるルシアナを、人が良すぎるとアリッサは思ったが、初日から敵を増やしても仕方ない。とりあえず、人間関係をここで探るのが一番だ。アリッサも座り、二人に挨拶した。 「アリッサ・アルバンと申します。はじめまして」  ヴィクトリアがセンスを煽ぎながら言った。 「まぁ、ルシアナさまは可愛らしい妹さまをお連れなのですね。さぞや、お心強いでしょう?」 「はい。アリッサがいてくれると場が明るくなっていいんです」  ルシアナが微笑む。クレアーヌがすかさず言った。 「本当に。アリッサ嬢は宮廷には明るすぎて、目がくらんでしまいそうですわ」 「…………」  鈍感なアリッサにも分かる。これは嫌みに間違いない。後宮の洗礼を受けたということか。 「まぁ、クレアーヌさま、アリッサ嬢の若さに嫉妬するのはいけませんわ。もうすぐ三十になるからと言って」  ズバズバというのはヴィクトリア。 「あなたと私は一歳違い。嫉妬しているのは誰かしら?」  二人は火花を散らし、アリッサはずずずっとお茶を飲む。  ――なかなか難しいところに来てしまったみたい……。  想像はついていたが、皇太弟の女人たちの関係は簡単ではなさそうだ。 「もう一杯、お茶はいかが?」  しかし、姉はめげないし、扱いが上手い。日頃から、ご婦人たちとばかり付き合っていただけあって、二人の側室にお茶を勧めることで、それとなく帰れと言う。さすがに彼女たちもそれに気づかないほどではなかった。そうでなければ、宮廷で生き残れはしないだろう。 「いいえ、今日はここで失礼しますわ。挨拶によっただけですもの」 「荷ほどきもあるでしょう。なにかございましたら、なんでも申しつけてください」  ルシアナは妃の貫禄で頷いた。 「ええ。そうさせていただくわ」  アリッサは一言も口を開かなかった。開く気分にもなれなかった。 「珍しく静かだったのね? アリッサ」  ルシアナが茶器を片づける侍女たちを横目に言った。アリッサは絹張りのソファに移動して両腕を広げ、背もたれに深く座った。 「だって、なにを話したらいいっていうの? わたしが一言でも発したら、十倍にもあの人たちは返してくるわ」 「それはそうね。でも世間話くらいはできるようにならないと」 「今のわたしにできる最善のことは黙っていることくらいよ。『話す前に口の中で七回舌を回すべきだ』(口は災いの元)というし」 「まぁ……そうね」  ルシアナは笑って、紅茶をカップに入れると、自らソファの横のサイドテーブルに置いてくれた。アリッサはソーサを持って茶器を取り、部屋を見回す。美しい白い壁に金のモールディングもトロンゴールドが趣味がいい。アーチ型の窓もエレガント。カチカチと金の置き時計が音を立てるのも心地良い。部屋だけは二重丸と言っていい。 「皇太弟殿下のお越しでございます」  そんなリラックスしているところに、突如、ルシアナの夫となる人の訪いが告げられた。アリッサは慌てて立ち上がると、皺が寄ったドレスを撫でてましにすると、耳にかかる髪を挟んで留めた。  そして、天井まで続くほど高いドアが開けられ、皇太弟殿下が現れた。栗毛色の髪を持ち、チェスナッツ色の瞳をしていた。長い髪を黒いリボンで後ろに留め、普段着だろうか、過美ではないグリーンの上着と揃いのズボンを穿いている。ジャケットには一筋の皺もよっていない。 「皇太弟殿下。ご挨拶申し上げます」  ルシアナがお辞儀をして、慌てて、アリッサもその少し後方で同じようにした。すると、皇太弟殿下はアリッサの方を見てルシアナに問うた。 「妃が妹を連れて来ると聞いたので、少し驚いたが、本当だったのだね」 「アリッサはまだ若く、宮廷の行儀に詳しくはございませんが、どうぞよろしくお願いいたします」 「サー・ロイドに聞いたよ。ベルメルで彼の鼻っ柱を折ったってね」 「そのような……」  隙の一点もない皇太弟はルシアナの手にキスをした。そしてアリッサに近づくと背の低いアリッサのために身を屈めてくれ、その手にも同じように優雅な手つきでキスを施す。 「これからは後宮も少し楽しくなりそうだ」 「それだといいのですが」  ルシアナは遠慮がちに頷き、頭を下げた。 「サー・ロイドがリベンジをと煩いからね、そのうちベルメルをやろう。若者が集まるのは賑やかでいい。疲れただろう? 二人とも、今夜はゆっくりしなさい」 「はい」  皇太弟はそれだけを言うと、部屋を出ていった。アリッサは姉の腕を掴んだ。すると僅かに震えていた。 「お姉さま?」 「少し、緊張したみたい」 「大丈夫?」 「ええ……上手く話せたかしら?」 「もちろん。お姉さまに限って間違いなんてしない」 「なら、いいのだけど……」  アリッサは姉を抱きしめた。 「お姉さま、大丈夫よ。あまり役には立たないかもしれないけど、わたしもいる」 「いてくれるだけで心強いわ」  姉妹は微笑み合って、手を繋いだ。そしてまだ山のように積まれている荷物のことを思いだし、侍女たちに各部屋に運ぶように命じると荷ほどきを侍女たちと共に始める。  ――美男だったけど……。  アリッサは手を止めて先ほど会った人を思い出す。正直、あまり皇太弟によい印象を持たなかった。そもそもあの二人の側室を愛せるのだから、並の人間ではないと思うし、少し嫌みな目をしていたとついつい思ってしまった。  ――でも美男よ。やさしそうだし……。  表面的だけかもしれないが、親切そうではあった。顔はルシアナの元恋人フィリペとは全く違う優男であるとはいえ、チェスナッツ色の目は同じで、あの瞳に見つめられたらルシアナも心が躍る「かもしれない」。けれど、考えてもしかたのないこと。正式な妃になる儀式が終われば、否応なしに皇太弟はルシアナの夫だ。  ――考えないことにしよう。  そしてちょうど、本を棚に並び終えたところにドアがノックされた。 「アリッサ、片づけは終わった?」  姉が部屋に入ってきてた。 「ええ……大体は」 「なら、少し休むといいわ。私も昼寝する」 「そうね。朝も早かったし」  アリッサは同意したが、眠気などまったくなかった。姉が自分の部屋に戻ってドアを閉めた音を確認すると、そっと部屋を抜け出すことにした。しかし、気分はすぐに最悪になる。廊下にでると、黒いメイド服に白いエプロンを着けたお付きの侍女たち三人が、先ほどのことを噂していたのだ。 「殿下は姉より妹に興味をお持ちになったようね」 「姉の方は宮廷ならどこにでもいそうな人だもの。殿下は毛色の違った猫がお好きだから」 「本当に。どこがいいんでしょうね、あのアリッサという子の――」  ――皇太弟殿下は、わたしになんか興味なんて持ってない。  サー・ロイドがきっと自分のことを面白おかしく語ったせいだろう。だから話がアリッサのことになっただけで、それはルシアナとの共通の話題だっただけだ。  宮廷というところは、陰湿で噂話が好きなのだ。そして、侍女たちは、アリッサたちの持ち物から振る舞いまで、あれこれと批評し合って笑っていた。  ――なんなのよ!   アリッサは腹を立て、廊下を探検するのを諦めて、今度は部屋を横断してバルコニーへと出た。庭で散歩の方がずっと気持ちがいい。パラソルを片手に苛立つほど長いドレスを引きずって芝生から石田畳の小道へと出る。すると、遠くに白い石でできたガゼボ(東屋)が見えた。  ――あそこに行こう。  レースのパラソルをくるくる回しながらアリッサは、小道を上った。
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