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4  ガゼボに到着すると、パラソルを畳んで石の椅子に座り、テーブルに肘をつく。行儀悪いとまた言われそうだが、ここにはだれもいなかった。  ハラハラと銀杏の木が葉を落とし、白樺の木が紅葉しているのをただぼんやりと見つめる。 あたりは地面は黄色い絨毯となり、季節の移り変わりにさすがのアリッサも感傷的になる。  ――家に帰りたい。  そうアリッサは思った。ここにはなんの自由もなく、こっそり昼寝の時間に抜け出す他、息抜きもできず、皆から監視され、またそれをネタに批評され、噂となって広まる。  しかし、それもつかの間――。 「お前は誰だ」  後ろから男に声をかけられたのだ。勢いよく振り向いたので、バランスを崩して椅子から転げ落ちそうになったアリッサを男は片手で抱き留めた。 「なんとそそっかしい女だ」  男は手を放すと、めんどくさそうに言った。黒髪に質のいい黒いジャケット、しかし、クラヴァット(ネクタイ)はなく、喉元が露わになっている。髪もしっかりと結ばれておらず、垂らしたままだ。瞳は漆黒で、長いマントを億劫そうに肩に掛けていた。 「あなた、誰?」 「それはこっちの台詞だ」  男は、アリッサが勧めてもいないのに、どんどんとベンチに座ってしまう。まるでそこが彼専用の場所のように。  ――ミステリアスな人。  それがアリッサの男に対する第一印象だった。太い眉に意志の強そうな目。張った顎。突起した喉。男らしいが、どこか冷たさを持ち合わせているようにも見えた。 「下がれ」 「下がれって酷い。先にここに来たのはわたしなのに」  アリッサが抗議すると、相手は少し驚いたように目を広げたが、すぐに笑った。まるで笑ったのは数年ぶりような小さなものだったけれど。 「ジュエルの元に妃が来たというがそなたがそうか」 「ち――」 「ここは俺の場所だ。宮廷にはそれなりの決まりがある。さっさと部屋に入って閉じこもって夫が訪れるのを待つのだな」 「だから、ちが――」  否定しようとしたが、男は目を閉じて石のベンチに寝転んでしまった。アリッサは抗議したかったけれど、相手が何者か分からなかったから、あまり無礼な態度はできない。皇太弟を名前で呼んでいることからして、親しい友人かもしれない。告げ口をされたらたまらない。 「ふん」  アリッサはそれ以上、なにも言わずに去ろうとして、 「おい」 と、男に止められる。 「なによ?」 「そのペンダント」  男はアリッサの胸元を指差した。 「これがなに?」 「どうしたのだ」 「どうした? お母さまの形見だけど?」 「貸してみろ」 「嫌よ」  アリッサが背中を向けると、男は起き上がって彼女の肩を掴んで自分の方を向かせると、ペンダントを掴んだ。それで、アリッサも気がついた。クラヴァットをつけていない男の胸元に同じペンダントがあることを。 「それ――」  アリッサも同じことを訊ねようとしたが、男の手はすぐにペンダントから興味が失せたように離れた。 「ゆけ。ここにいるのが見られるのはよくない」 「言われなくても行くわ」  西を見れば日が沈みかけている。秋の昼は短く、夜は長い。見知らぬ庭で夜に歩き回るのは宮殿とはいえ安全とは言いがたかった。しかも、目の前には怪しげな男がいる。  アリッサは立てかけてあったパラソルを掴むとそのまま早足で小道を下り、姉のいる部屋へと急ぐ。願わくば、まだ昼寝から目が覚めず、アリッサが一人で出歩いていたことを気づきませんようにと祈ったが、そうは問屋が卸さない。  やはり姉は心配して侍女たちにアリッサを探させていた。 「アリッサ、どこに行っていたの⁈」 「庭を少し探検しに行っていただけ」 「勝手に出歩いてはだめ。それに一人で行くなんてどうかしている。必ず、侍女を連れて行きなさい」  そんな面倒なことは嫌だと言いたかったが、アリッサは黙って頷くほかなかった。姉に逆らって部屋に閉じ込められたら元も子もない。 「ディナーはもう用意されているから、食べましょう」 「皇太弟殿下は?」 「お忙しいらしいから、わたしたちだけよ」  気楽でよかったと内心、アリッサは思った。  十人は座れるほど大きなテーブルにつけば、待っていましたとばかりに皿が並び始める。ざりがにのビスク、牛フィレミニョンのトリュフ刺し、フォアグラのパテ、雉肉、煮リンゴ。豪華なメニューが次々に並ぶ。ワインを傾けながらアリッサは言った。 「こんなに食べられない」 「食べたくなければ残せばいいの」 「そんなのもったいないし、作った人に申し訳ないし、民は飢えているのに――」 「アリッサ。宮廷には宮廷の作法があるの。前菜からアントルメ(デザート)までしっかりと食べるのがマナーなのよ」 「でも――」 「分かったわ。一皿ずつの量を少なくするようにシェフに伝えておく。それでいいわね?」 「そうね。それがいいと思う」  アリッサは煮リンゴを食べ終わると、あのミステリアスな男について姉に訊ねようと思った。誰なのか、姉ならば見当をつけられるかもしれない。同じペンダントを持っていたことも不思議だったし、宮廷であんなラフな恰好をしていていいものかと不思議に思ったのだ。しかし、先に姉が言った。 「チェンバロを弾きましょう。アリッサ、歌って頂戴」 「ええ……」  だからしばらく二人は音楽に興じた。アリッサはよい声をしたし、姉のチェンバロの腕前は玄人並みだ。侍女たちもうっとりと聞き惚れている。しかし、喉が渇いて部屋を出たところで、また侍女たちがおしゃべりをしているのが聞こえた。これは姉に言って、きつくお仕置きをするか、別の者に変えてもらうかしなければと、アリッサは思って一歩前に足を踏み出そうとしたが、思わず足を止める。 「アリッサ嬢はまだ気づいていないみたいね」 「なにが?」 「自分が姉の補欠だってこと」 「どういうこと?」 「だから、姉のルシアナ妃を皇太弟殿下が気に入らなかった時のために、予備をアルバン伯は寄こしたのよ」  アリッサは息が止まるのを感じた。そんなはずはない。自分は一年の約束で行儀見習いに来ただけだ。しかし、振り返ると不思議なことばかりだったことを思い出す。一年だけの約束なのに、姉と同じだけの宝石と衣装を父は用意してくれた。それは高価なものばかりだった。ダイヤモンドのネックレスに正餐用のドレス。いつでも主役になれるように準備されていたとしか思えない。 「アリッサ?」  姉が暗い部屋に入って来て声をかけた。 「どうしたの?」 「なんでも――」  なんでもないと言いかけてアリッサは止めた。いつも直球で生きている彼女が、逡巡として悩むのは彼女らしくなかったからだ。 「侍女たちが噂していたのを今、聞いたの」 「また? 信じてはだめよ」 「聞いて」 「うん?」  姉の優しい声にアリッサは顔を上げた。 「侍女たちは言っていたの、わたしはお姉さまの補欠だって――」  姉もまた息を飲んだのがアリッサには分かった。 「本当のことなのね……」 「アリッサ……」 「なんで言ってくれなかったの? 行儀見習いなんて嘘をついて……」 「…………」  姉はどう言ったらいいのか分からない様子で言葉を探している様子だった。が、すぐにアリッサの両手を握ると静かに諭すように言った。 「お父さまが皇太弟殿下派なのは知っているわね?」 「…………」 「お父さまは皇帝陛下より皇太弟殿下に一刻も早く御子をと思っている」 「そんなのわたしには関係ない」 「関係は大ありよ。皇帝陛下は貴族たちの力を削いで、君主に権力を集中されようとなさっている。それをお父さまは食い止めようとしているの。我が家はその渦中にいるの。私たちのどちらかが、皇太弟殿下に気に入ってもらわないと我が家は――」  アリッサは姉の手を振り払った。 「私は側室になるのも、お姉さまの身代わりになるのも嫌。しかも補欠? 信じられない!」 「皇太弟殿下がアリッサに興味を持たれなければ、約束通りに一年後に家に帰れるわ」  アリッサは鼻で笑った。 「それで? 周囲はわたしをなんて言うの? 皇太弟殿下のお手もつかなかった余り物? 名節だって疑われる」 「…………」 「わたしはものじゃないのよ、お姉さま」 「気に入っていただけたら、私と同じ、いいえ、それより上の正妃になれるかも――」 「そんなの望んでない」  ルシアナはもうそれ以上、アリッサに言うことはできない様子だった。  アリッサはドレスの裾を翻して自分の部屋へと行った。  重厚な天蓋付きのベッドに飛び込み、明日の朝には必ず家に帰ろうと誓う。  そして豪華な食事に立派な部屋、美しいドレスに浮かれていた自分を悔やんだ。  ――皇太弟に面会を願い出て、帰宅の許しを明日の朝一でしなきゃ! お父さまにも文句の手紙を今すぐ書かないと!  アリッサは枕を拳で殴りつけた。  ――あり得ない、わたしがお姉さまの補欠なんて! 予備だったなんてあり得ない!  彼女の誇りはズタズタで涙はぽろぽろ出て止まらなかった。
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