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第2章 形見のペンダント 1
第二章 形見のペンダント
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皇帝、ユリスはずっとあのペンダントが気になっていた。父の形見であるそれは、死の間際に「運命は奪い取るものだ」という言葉とともに残された。それ以来、皇帝の座を守ることこそが父の遺志であると思って苦難に耐えてきたが、同じネックレスを見た時、父が言わんとしていたのは、皇帝の座のことではなかったのではないかと思い始めていた。
「いかがされましたか」
ぼんやりしていたのだろう。ユリスは机の上で羽ペンを持ったまま考えこんでいて、紙を汚していた。それを訝るようにカルデン卿が問うた。
「いや……なんでもない」
父が模様替えをしたという「赤の間」は壁紙もカーテンも赤でユリスには政務に集中できる場所ではなかったが、ここが皇帝の執務室。即位して五年、まだ慣れないが、慣れなければならない。
「ジュエルは新しい妃を迎えたとか」
話を振るとカルデン卿はあからさまに嫌な顔をした。
「皇帝陛下に妃がおられないのに、まったくなにを考えておられるのやら。すでに側室も二人もいるというのに……」
「二人は妃ではなく、その下の側室だ」
「我が国は、妃――妃たちの中から正妃を選ぶ慣習ではございますが、側室も子を産めば妃になれます。歴史的には側室から正妃になった者もおり、皇太弟派は遠慮というものを知りません」
「妃の儀式の日取りは決まったのか」
「いえ、まだのようです」
「そうか……」
三十五歳の働き盛りの右腕は我慢ならないとばかりに、顎髭を揺らして言いたりぬそぶりを見せた。しかし、確かにその通りだ。皇帝が子をなす前に先に男子を得ようとしているのは丸わかりだ。それも、ユリスに嫁いだ妃の三人が相次いで不審死したことを鑑みれば、だれが裏で糸を引いているのか、想像に難くない。
「アルバン伯もアルバン伯です。陛下の即位には尽力くださったのに、その後は皇太弟殿下を支えている。一体、なにを考えているのやら」
「アルバン伯もなにか事情があるのだろう」
父の親友であったアルバン伯。先帝の遺言通り、ユリスを皇帝の座につくことを強く推してくれ、おかげで弟に帝位を奪われずに済んだ。それだけでも恩があるが、ユリスが貴族たちの力をそぎ落とし、皇帝の親政を進めると、他の貴族がそうしたようにいつのまにか、弟のジュエルの派閥へと鞍替えしていた。
「少し、目が疲れた。庭を歩いてくるよ」
「もう日が沈みます。早くお戻りください」
「分かっている」
ユリスはクラヴァットと緩めると椅子に投げ、いつものようにマントだけを羽織って庭へと出た。あのガゼボにまた行ってみようと思ったのだ。あそこはユリス専用の場所で、昼寝にちょうどいい。しかし、先日、現れたあの無知で無礼な娘は、それを知らないのか、いや、ユリスその人が誰かも分からずに食ってかかった。まったくもって呆れる――と思いつつ、また会えたらいいとも思う。そうすれば、聞きそびれたペンダントのことをもっと知れるかもしれない。 しかし、問題は一つ。
もし、彼女が弟の妃だったら――ということだ。そうなれば、密会はいささか面倒なことになるが、あのガゼボなら、ユリスが会いに行ったのではなく、娘の方が迷いこんだのだと言い張れる。先日と同じ時刻を選んだのは、そんな偶然を期待したからだ。
そして案の定、あの娘はいた。
手にはベルメルの木槌。真剣な眼差しで鉄製の門を狙っている。ドレスはラベンダー色だ。小さい花柄で、帽子も同じ色。高価そうな質のいいシルクだが、性格なのだろう。あまり長い裾を引いておらず、一見、軽装に見えた。
「なにをしている?」
ユリスが声をかけると、少しだけ瞳を上げただけで挨拶もない。
「しっ。黙って。真剣なの」
そして木槌で赤い球を打つ。芝生の上を球は滑らかに転がり、門を潜った。
「やった!」
ユリスはガゼボの椅子に座って見物した。
「なかなかの腕前だ」
褒めると気を良くしたのか、娘は、曲げていた体を起き上がらせて誇らしげに言った。
「わたし、サー・ロイドに勝ったことがあるの」
ユリスはサー・ロイドが誰であるか知らなかったが頷いて見せた。おそらく、弟の取り巻きの一人だろう。
「お前、名をなんという?」
娘は憤慨したように腰に手を当てた。
「人に名前を聞くときは自分から名乗るって知らないの?」
ユリスは笑う。やはり、ユリスが誰であるのか、気づいていない。
「俺はユリスだ」
「わたしはアリッサ」
姓とか爵位とかはアリッサはどうでもいいらしい。木槌を持ったまま、席を勧められてもいないのに、ユリスの隣に腰掛けた。
「ユリス、あなたはここは長いの?」
「まぁ、そうだな」
貴族の多くはここで寝起きしている。そんな一人だとアリッサは彼のことを思ったようだった。
「わたしはまだ七日。こんな退屈な場所はない」
「それには俺も大いに同意だが、退屈じゃない場所とはどういうところか」
「街よ、街。チョコレートを飲んだり、ドレスを注文したりするの。あとは領地での狐狩りとか、ベルメルの試合とか」
「それは興味深い」
ユリスは腕を組んで同意した。アリッサはテーブルに肘をついて顎を乗せた。
「本当にここはつまらない」
「皇太弟が部屋に来るのを待つばかりだからな」
「そんなの待っていないけど、部屋から出るなって言うのよ」
「誰が?」
「姉よ。姉が皇太弟の妃なの」
ユリスは少し頬がほころぶのを止められなかった。もしかしたら、彼女は弟の妃なのではないかと危惧していたのだ。しかし、違った。アリッサは妃の妹でしかない。
「では俺がなにか楽しいことを考えてやろう」
「例えば?」
「晩餐会とかはどうだ?」
「肩が凝りそう。皇太弟殿下はベルメルの試合を催してくれるって言っていた。でもいつになることやら」
比べられれば意地も張る。
「ではベルメルの試合を催せばアリッサの機嫌は直るのか」
「まぁ、そうね。あと、皇太弟の嫌みな側室たちが毎日、挨拶にこなければ、もっといい」
ユリスは噴き出しそうになった。側室が妃に挨拶するのは仕来りだが、率直に迷惑だと言い切る人はさすがに宮廷にはいないし、たしかにあの二人と毎日顔を合わせるのは、鬱陶しいだろう。
「ヴィクトリアは分かるわ。美人だし、話も巧みだもの。でもクレアーヌ男爵令嬢? べつに美人でもないし、嫌みばかり。なにが楽しくて皇太弟殿下は側室にしたのかしら?」
「あれは銀行家の娘なのだ」
アリッサの瞳がこちらを向いた。
「皇太弟の資金源というわけだ」
「なるほね」
「それにヴィクトリアはただの美人でも高級娼婦でもない。長い間、貴族たちのことを嗅ぎ回った皇太弟の間諜だった。そんな女を野に放てない。皇太弟は後宮に閉じ込めることにしたってわけだ」
「それで後宮の仕組みがわかったわ」
アリッサは顎を手から離し、にこりとした。
「教えてくれてありがとう」
「別に大したことではないよ。宮廷なら誰でも知っていることだ」
アリッサがずるっとユリスに間合いを詰めた。
「侍女たちが嫌になるくらいおしゃべりなの。本当に腹が立つ。勝手に辞めさせてもいいと思う? 皇太弟殿下に聞かないとだめ?」
「辞めさせるのは簡単だ。だが、そういう噂話は、大概、わざと聞こえるよう嫌がらせで言っているんだよ」
「そうなの⁈」
「ああ。気分を害して薄ら笑っている輩がいるんだ」
「ユリスは物知りなのね」
「いや……」
言葉をユリスは濁した。アリッサは帽子のツバを傾けてさらに近づく。
「ありがとう、助かったわ」
ユリスはアリッサの宮廷慣れしていないところを好ましく思った。彼女はおそらく十年ここにすんでも慣れることはないだろう。率直で純粋だ。そしてユリスはペンダントのことを思い出す。
「そのペンダントを見せてくれないか」
「あなたのを見せてくれたらね」
「もちろん」
別に隠している様子はない。
「はずしてくれる?」
彼女は自ら後ろを向くと、髪を右手で上げ、ユリスに首の後ろを見せる。無防備だ。頭から被ってはずせばいいと思ったが、大きな帽子には羽もついている。とても頭をくぐれないだろうし、彼女は帽子を取る気はないようだ。仕方なしにユリスはペンダントの繊細な金具に手を伸ばし、はずしてやると、自分のもアリッサの手の中に置く。
「まったく同じののようね」
劣化の具合は違うけれど、二つは同じペンダントだ。ロケットペンダントのように少し膨らんでいて、金でできている。蔦と花の模様があり、小さなルビーとサファイヤがちりばめられていた。かなり凝った意匠で腕の職人によって作られただろう。しかし、どちらもロケット部分が開けないようになっていた。
「どうしてこれを持っている?」
「お母さまの形見よ。あなたは?」
「父の形見だ……」
「じゃ、二人は知り合いだったってこと?」
「そうかもしれない」
知り合いではなく、恋人同士ではなかったか。しかし、アリッサは首を振る。
「お母さまはお父さまと十六で結婚して、二十一で亡くなっているし、病弱だったからずっと領地で暮らしていたから、どこで出会ったのかしら?」
「父上はほとんど都から出ていない」
ならば共通点はなかったことになる。
ユリスは首を傾げる。誰かがアリッサの母に譲り、それをアリッサがもらったのかもしれない。その可能性の方が高いのではないか。
ユリスはペンダントの秘密を知りたかった。父が亡くなるその時まで首にしており、はずすことすら拒みたい様子で、悲痛な表情をしてユリスの両手に握らせた。そしてこう言ったのだ――。
『対のペンダントを探せ』
『父上?』
『運命は奪い取るものだ』
それをユリスは自分を叱咤した言葉だと思った。弟から皇太子の位を守るようにという意味だとも思い、不甲斐ない自分――弟を皇太弟にするしかない弱い立場をなんとかしなければと思ったものだ。しかし――本当にそうだったのだろうか。なんというか――もっと個人的な感情だったのではあるまいか。しかし、その時だ。木々の間から黒いマスクをした男たち三人が、現れた。すらりとした体。剣を持つ手は慣れている。
――刺客か!
男たちは剣を抜いてユリスに襲いかかった。アリッサは頭を抱えたまますぐに避けたので事なきを得る。ユリスはアリッサを庇い、刺客の一人に蹴りを入れたが、いかんせん、こちらは素手だ。殴り、そして蹴るが、致命傷を与えられない。
「ユリス! 受け取って!」
アリッサがベルメルの木槌を投げた。ユリスは宙で受け取って、刺客の脳天を狙う。
「この!」
ユリスはすかさず一人の頭を――もう一人の腹を――そして最後の男を倒そうと振り向いた時、アリッサが落ちていた剣で男の腕を斬った。
三人目はキッと目だけをマスクから覗かせ、ユリスを睨んだが、アリッサには気にもとめなかった。完全にユリスだけを狙っていた。
「大丈夫か――アリッサ……」
「え、ええ……」
ユリスが、彼女の剣を持つ手を握ると、小刻みに震えている。人を斬ったのは初めてだろう。ユリスはアリッサの背を撫で、剣をゆっくりと取り上げる。
「助かった、ありがとう」
「あの人は――」
「心配ない。死にはしない」
とはユリスは言ったが、おそらくあの剣には毒が塗ってあった。小さな傷でも致命傷になる。しかし、そんなことをアリッサに言って怖がらせる必要は全くなかった。ただ、急に現実に戻って恐ろしくなって震えるアリッサを抱きしめてやる。彼女の体は小さく、そして温かかった。彼女を慰めながら、ユリスは自分の孤独も満たされていくのを感じる。
「君になにもなくてよかった……」
「あなたに怪我はない?」
「かすり傷一つない。アリッサが木槌を投げてくれたおかげでね」
アリッサが胸から顔を出して少し頬を緩めたので、ユリスは笑ってやった。二人の連携は素晴らしく、いつか――笑い話にできたらいい。そんな二人の笑みだった。
そしてユリスは胸が締め付けられるのを感じた。おそらくアリッサの笑みのせいだろう。彼女の翡翠の瞳はユリスの心を鷲づかみにする。だから、それは自然な行為だったと思う。
「ユリス――」
ユリスはアリッサの額にキスをした。やわらかな香水の匂いがしてそれが心地よかった。そしてこんな時間が永遠に続いて欲しいと願う。だが、それは危険過ぎた。また刺客が今夜訪れないという保証はないし、なにより、ユリスはアリッサを傷つけるのが怖かった。おそらくそれは――。
――愛おしい。
という感情からだろう。アリッサと出会ったのは運命のような気がした。あのペンダントがきっとそうさせるのだ。『奪い取る』そうなのかもしれない。弟から奪い取らないといけないのは、皇位ではなく、アリッサだったのではないか――。
「ユリス?」
「あ、いや……今のことは誰にも言うな」
「う、うん……」
「余分なことを言えば、この宮殿ではなにが起こるか分からない」
ユリスは動揺しているアリッサの目を見た。皇帝が殺されかけたなどと彼女が触れ回ってトラブルに巻き込まれたら大変だ。アリッサは頷いた。
「分かっている……誰にも言わない。お姉さまにも」
「そうだ。その通りだ」
アリッサはペンダントを握り締め、ユリスを見ていたが、夕日が沈み、あたりは暗くなり始めていた。遠くから「アリッサさま、アリッサさま」と彼女を捜す声もする。
「早く行け」
「うん……」
アリッサは駆けていったが、手に持っていったのはユリスのペンダント。彼の手にはアリッサのもものが残された。
――アリッサ・アルバン。
彼女の名前をユリスは深く胸に刻んだ。
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