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2  その夜のことだ。時計の針が八時を指して鳴った。 「珍しいですね、兄上が晩餐に遅刻するとは」  ディナーの席から立ち上がってユリスを迎えたのは皇太弟、ジュエル。ユリスの二歳年下で、二十四歳の弟が笑顔でユリスを迎えたが、それに笑みを返すことをユリスはしなかった。 「氷の皇帝」  それがユリスの二つ名だ。誰に対しても心を許さない。特に帝位を争った弟には。しかも、いまもって虎視眈々と位を望み、皇太弟となって以来はユリスの命を狙う始末。彼の三人の妃はすでに天に召されているのは誰の仕業やら。おかげで、もうだれもユリスに妃を送り込もうなどと思う貴族はこの都にいない。 「少々、手こずることがあってな。座るがいい」 「御意」  にこやかにジュエルは席についた。二人の母は違うから、顔はあまり似ていない。二人とも、父に愛された記憶はないが、皇族という誇りは持っていた。ユリスは皇帝として毅然とし、ジュエルは皇位を狙う者として、あちこちの貴族に尻尾を振っているという違いはあるが、野心の強さはどちらも負けず、父親によく似ていると思う。  ユリスはよいワインを勧めた。 「今年のワインの出来はいいようですね」 「百年後にそれを飲める貴族を羨ましく思うよ」 「それはまったくです」  そういいながら、建国初期、二百年前のワインを二人は傾けた。ジュエルとの夕食は三ヶ月に一度行われる。酔わせてさっさと帰ってもらうのが吉である。だが、今夜はさすがのユリウスもジュエルの結婚について祝いの言葉を述べないわけにはいかなかった。 「妃を娶ることになったとか」 「御意。アルバン伯の娘と結婚することになりました。すでに宮殿に入っております」 「そうか……気に入ったのか」 「はい。才色兼備で物静かな女です。妃にふさわしいかと存じます」 「ならいい。宮殿は静かな方がいいからな」  今のは嫌みだ。ジュエルの側室たちはいつももめ事を起こしている。それが妃の存在で静かになれば良かった。 「しかし――」  ジュエルは少し赤い顔で言った。 「どうした、問題でも?」 「妃は美しく、非の打ち所がありません。それがなんとなく面白みがなく」 「なんと贅沢なことか」 「どちらかというと、その妹の方に食指が動くのです」  ユリスはどう言っていいのか分からなかった。姉妹が二人そろって弟の妃になるために宮殿に上がったと今の今まで気づかなかったことがうかつだった。あの跳ねっ返りのアリッサが真面目な弟の目に留まるとは思わなかったのもある。 「しかし、仕来りでは――」 「もちろん、存じております。先に姉の方を寵愛し、その後――ということは。しかし、あのルシアナという娘、陛下も見ればわかると存じますが、なにかを見透かしているような目をするので、気分は乗りませんね」 「珍しいな、お前が女のことで愚痴をこぼすとは」 「酔ったのでしょう。陛下が高価なワインを開けてくださったので、進んでしまいました」 「いや、楽しい夜だった」 「それではこのあたりで」  ジュエルは大形なお辞儀をしてから、少しふらつく足で部屋を去っていった。本当に酔って言ったのか、はたまた何かの計算なのかは、ユリスには謀りかねたが、さきほどアリッサと二人でいたことはバレていないはずだ。刺客の二人は仕留め、もう一人は案の定、庭で倒れているのを発見した。毒死だった。誰が黒幕か吐かせなかったが、吐かせたところでどうなる? 弟のジュエルを断罪するのは、まだ早い。逆に陰謀だと言い出しかねない。 「さて、どうするか」  あまり酔いたくないユリスはウイスキーの代わりに水を飲んだ。この宮殿では誰もが何かしらに酔っている。自分に酔う者もいれば、権力に酔う者、金に酔う者、様々だ。しかし、いかなる酔いの始まりも酒と決まっていて、ユリスはなるべくしらふを心がけていた。 「アリッサは大丈夫だっただろうか」  ペンダントに無意識に触れる。自分のものではない。アリッサのものだ。いつ返して貰えるのか気になった。またあのガゼボに来てくれるだろうか。それとももう懲りてこないか。彼女のくるくる変わる表情の可愛らしさを思い出すと、ジュエルの言わんとしていたこともわかって、気持ちは暗くなった。 『運命は奪い取るものだ』  父の言葉が誘惑のようにユリスの耳にこだました。  それからというもの、アリッサとユリスは時折、約束したわけでもないのに、あのガゼボで会っていた。初めは「わたしのペンダントを返して」という理由だったが、ペンダントを交換しても彼女は、姉が昼寝をしている間の数時間だけユリスとの会話を楽しんでいるようだった。「だからね、去年の狐狩りでは足を痛めていたの。そうでなければ、もっと上手く馬を御せたし、わたしの勝ちは決まっていたわ」 「では今年はなんとしても勝たないとね。足は問題なさそうだし」 「そうなの――でも、狐狩りに行けるかが問題よ。領地のわたしの犬たちだって足踏みしてわたしを待っていてくれているに違いないのに」  ユリスは笑った。  アリッサはいい。平凡な文学や詩の話、誰と誰が結婚しただの、夫婦仲が悪いだのという噂話をしない。ベルメルに狐狩り、庭で小鳥の巣を見つけたこと、宮廷の料理は豪華だが不味いことなどを面白おかしく語る。 「家に帰りたいのか、アリッサ」  狐狩りの心配ばかりしているアリッサに問うた。すると、彼女は長い睫毛を少しもたげて、親指を弄びながら答える。 「もちろんよ。少なくとも皆が噂するように皇太弟の側室になるよりずっといいもの」 「あいつのどこが嫌だ? 顔はなかなかいいし、それなりに女には優しい」 「『それなりにね』。それに皆に優しい。いい顔ばっかり」  アリッサはあまり人を悪く言わないのに、ジュエルのことは好きではないらしい。強い拒否感をあらわにした。驚いていると、アリッサ自身、そのことに気づいたらしくすぐに謝る。 「ごめんなさい。あなたも皇太弟殿下派?」 「いいや、違うよ」 「ならよかった。ちょっと腹が立っていただけ」 「なぜ?」 「お姉さまとの婚礼の日にちはまだ決まらない。また別の妃を入れるっていう噂もあるし、なにがなんだか分からない状況よ」  アリッサが怒るのも無理はない。ジュエルはできるだけ多くの貴族と結びつきを得る為、アルバン伯以外の娘も妃にしたいと思って動いている様子だった。そもそも、ユリス派だったアルバン伯はつなぎ止めたいが、信頼には値しないというのが本音で、側近の娘を妻にというのが、周囲の思惑だろう。 「まぁ、いい。少し歩こう」 「そうね。いい天気だもの」  ユリスはアリッサを皇太弟の居所から遠い、自分の部屋の方へと導き始めた。人にアリッサと歩いているのをあまり見られたくなかったからだ。彼女は自然と、ユリスの腕に手を置いて微笑んだ。ユリスも「氷の皇帝」などという異名がその笑顔の前ではどうも落ち着かずに、顔を背けて僅かに赤面してしまう。  なにをするにもアリッサは自然体で、彼女に惹かれざるを得ないとユリスは思い始めていた。アリッサは薔薇の花片に手を伸ばし、その匂いを嗅ぐと笑顔になった。閉じ込めてしまいたくなるくらいこの青空に合う笑みだ。 「あっ」  しかし、そこにおっちょこちょいのアリッサは石畳で転びそうになった。無理して履いているヒールの靴がそうさせたのかもしれない。とっさにユリスは彼女を出会ったその日と同じように腕で抱き留めると、胸の中に入れた。 「ユリス……誰かに見られるわ」 「ここには誰もいない」 「いるかもしれない」 「絶対にないよ」  ユリスはアリッサの顎を上げた。「なに?」という少女らしい瞳がこちらを見、ユリスは胸がドキリとし、その赤い唇を見た。瑞々しい、ぷくんとしたそれは、まるでユリスの接吻を待ち焦がれているかのようだった。 「皇帝陛下! 皇帝陛下!」  しかし、その前に後ろから声をかけてきた無粋者がいた。 「イーザラン……」  辺境にいるはずの老将、イーザランが、めずらしく宮廷服などを着込んで、似合わない白いかつらを被って現れた。 「陛下」  その時にアリッサの息を飲む声が聞こえたのは気のせいではないだろう。彼女は大きな緑色の瞳で彼を見ると、怒ったようにつり上げて言った。 「ユリス? もしかしてあなたは皇帝だったの⁈」 「黙っているつもりはなかった……ただ……」 「じゃ……本当なのね?」 「アリッサ……」  アリッサは明らかに動揺していた。ここで騙していたのをなじりたいという葛藤と、それは無礼すぎるという気持ちの狭間にいるようだった。そしてようやく彼女が発したのは、戸惑いの混じった失意の声だった。 「ご、ごめんなさい、失礼いたします。少し混乱して……」 「アリッサ!」 「失礼します、陛下……」  アリッサはしばし俯いたかと思うと、スカートを無造作に掴んで頭を下げると背を向けた。 「アリッサ!」  声をかけたが、振り向かない。それはそうだ。皇帝だとずっと隠していたのだから。傷心を隠すためにいつもの冷たい目を老将に向けた。 「一体、なんの用だ」 「悪い時に参りましたか」 「最悪のタイミングだった」 「申し訳ありません……」 「それより用件を言え」  異国出身の将軍は白い髭を風に靡かせて、少し訛りのある言葉で言った。 「軍費のことでございます。何度も足りていないことを上奏いたしましたが、お聞き入れ頂けず――」 「知っての通り、軍費に関することはジュエルの管轄だ。尻尾を振って向こうに言うことだな」 「陛下――」  といいつつ、イーザランの顔は怪訝なものとなり、走り去るアリッサに向けられた。 「あの令嬢は?」 「誰でもいいだろう?」 「誰でもよくはありません」  老将はユリスのことを心配してくれている――あるいは、彼女が皇太弟一派に狙われるのではと案じているのかもしれないと思った。ユリスは杞憂だと教えてやらなければと思った。 「考えすぎだ。あれはアリッサ・アルバン。アルバン伯の娘で、姉がジュエルの妃についてきたから、一緒に宮廷暮らしをしている」 「つまり、皇太弟殿下の側室候補ということですかな?」 「さあ、どうかな? ジュエルはあちこちと縁組みしているから、アルバン姉妹にかまっている暇もないようだ」  イーザラン将軍はふうっと息をついたが、それは安堵のものと違っているようだった。 「あれはアルバン伯の娘ではありますまい」 「どういうことだ?」 「本当の娘なら、姉妹で一人の男などに嫁がす者はそうはいません」  確かにその通りだ。姉妹で嫁ぐのは昔の風習で、今はそんなことはあまりない。聞いたところによると、アリッサは「行儀見習い」という建て前で宮殿にやってきたというのだから、アルバン伯も少しは恥を知っていたことになる。 「あの令嬢――」 「知っているのか?」  知っているはずはない。もう十年もの間、辺境にいたのだから。しかし、アリッサの後ろ姿にまだ目を細めてイーザランは考えこんでいた。そして、それが誰であるのか分かると、「ああ」と言い、皇帝にお辞儀も忘れて走り出そうとして大きくこけた。百戦錬磨の将軍ももう年なのだ。ユリスは侍従が助け起こそうとしたのを制して自ら手を貸した。 「一体、どうしたのだ」 「あれは――」  将軍はユリスの両腕を掴んで振るった。 「あれはセシリアーヌ王女殿下です!」 「だれだ?」  イーザランは首を振るった。 「我が主です。我が国、マカルニアが滅びた時、ともにこの国に亡命した王女殿下です」  ユリスは眉を寄せた。  マカルニアが滅びたのは三十年以上前のことで、イーザランがこの国に来たのは、各地を放浪した後の二十年前ころだと聞いている。その王女が存在したのなら、アリッサとは年が合わない。ユリスは呆れた。 「イーザラン。少しは時の流れを思い出したらどうだ」 「そんなはずはありません。あんなに似ているのに。アルバン伯の娘と言いましたか?」 「ああ、そうだ。アルバン伯と亡き妻との間の子らしい」 「ありえません」 「あり得ぬ?」  老人は拳を握りながら、皇帝の前だと言うのに歩き回って、思考を整えようとしていた。ユリスはゆっくりとそれを待った。カルデン卿が庭まで出て来て、政務の続きをするようにと催促顔をしたが、無視をしてイーザランの次の言葉を待つ。 「あの令嬢は王女に生き写しです。もし、あれが王女の娘ならば――父親は――アルバン伯では決してありません」 「では誰だ――」  ユリスは強い語気で訊ねたが、老人は年輪を刻んだ皺だらけの顔を凍らせたまま、ただこう言った。 「決して、あの娘を閨に入れてはなりませぬ」  ユリスはイーザランの言葉が意味することを理解できなかった。
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