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3  ここのところ、アリッサが考えるのはユリスのことばかりだった。彼はアリッサの話を聞くとき、本を読んでいるふりをするが、しっかりと話を聞いていて、おしゃべりは楽しいし、あのどこか冷たさのある瞳が、時々、温かみのあるものに変化するときの魅力的なことと言ったらなかった。 「最近、楽しそうね。友達でもできた?」 「ええ。でも内緒」 「あまり、羽目を外さないでね? 約束よ?」 「もちろんよ」  ユリスを友達だとはアリッサには思えなかった。会うたびにどんどん好きになっていた。同じペンダントを持つという希有な仲がそうさせるのかもしれないし、言葉にはできない運命を感じるのだ。アリッサはペンダントに触れて、ユリスを思った。  ――でも……。  今日のアリッサの目は暗い。  ユリスが皇帝だと知ったからだ。  よく考えれば当然だ。気軽な恰好で宮殿の庭、しかも後宮を歩き回れるのは、皇太弟の他は皇帝くらいだし、彼は宮廷のあれこれについて詳しかった。腹が立つのはそれを黙っていたこと――というよりは、ある日突然、それを突きつけられ、自分の愚かさが露呈したことなのかもしれない。あるいは、彼に対して芽生え始めた恋が一瞬にして終わったからかもしれない。 「どうしたの? アリッサ」  姉はいつものようにやさしい。アリッサは他の話題で誤魔化そうとした。 「皇太弟殿下はめったにおいでにならないし、お姉さまとの婚儀もいつになるか分からない始末。どうなんでしょうか」 「そんなことを心配しているの? お父さまがなんとかするでしょう」  ルシアナは皇太弟殿下が自分の部屋に訪れないことを内心喜んでいた。人は淑女で妻の鏡だともてはやしたけれど、彼女が動じないのは皇太弟に一ミリの興味もないからだ。それを皇太弟も感じ取ってここに足を運ばない。  アリッサは姉の座るソファーの横に移動すると、恐る恐る尋ねてみた。 「皇帝陛下ってどんな人?」 「皇帝陛下? そうね……お噂ではとても冷たい方。君主と生まれてくるべくして来たような人って言われているわ。あだ名は『氷の皇帝』」 「他には?」 「良く知らないわ。貴族たちが思いのままに利権を得ている事業を取り上げて、国のものとして、民に富を分配しようとしているのが、皆が嫌っている理由みたい」 「立派なことではない?」 「でも、それをされたら、貴族たちは明日からどうするの?」  それは確かにそうだ。父のアルバン伯も大きな鉱山などを所有している。アリッサのダイヤのネックレスも指輪もその財から出ている。 「でも――」 「もうこの話はおしまい。噂話を後宮でするのはよくなわ」  確かにその通りだ。これ以上聞けば、姉が疑念を抱く。アリッサは自室に戻ると、ベッドに飛び込んで枕を頭に乗せて考えた。  ――馬鹿、わたしの馬鹿。  好きになってはならない人をなりそうになった。もっと一緒にいたい。話したいと思ってしまった。しかも、自分は姉の補欠で、皇帝と相反する派閥に属している。想ってはならない人を想っていたことは罪である。  ――どうしたら……。  アリッサは顔を上げ、窓の向こうを見た。  ――会いたい。  駄目だと言われる状況ならば余計に会いたくなるのが、人の情だ。でも、再び顔を合わせる勇気をアリッサは持ち合わせていなかった。だから、それからあのガゼボに行くのはやめた。もしかしたら、ユリスも怒っているかもしれないが、アリッサの立場を考えたら、きっと分かってくれるはずだろう。 「アリッサ、アリッサ」  しかし、ある晩のことだ。  誰かが、窓を叩いた。アリッサは飛び起き、ベルメルの木槌を構えたが、声はどうやらユリスのものだ。こっそりと訪れてくれたのか。アリッサは、慌ててパティオドアを開けて、テラスに出た。 「ユリ――」  と言いかけて、相手が皇帝だと思い出す。慌てて、お辞儀をして 「皇帝陛下」と言い直そうとしたけれど、ユリスはそれを止めた。 「ユリスでいい。今まで通り。それに人に聞かれると不味い。人に見つかる前に、少し外を行かないか」  アリッサは断るべきだとは分かっていたが、夜中にユリスが来てまでなにを伝えたかったのか知りたかった。寝衣の上にガウンを羽織ると、スリッパのまま外に出た。ユリスはランプを一つ持っていて、もう片方の腕にアリッサの手を置いてくれた。「アリッサ、会いたかった」 「…………」  アリッサはなんと答えたらいいのか分からなかった。なにしろ、ユリスとは皇帝陛下の御名であることはこの国の誰もが知っている。しかも、横顔が銀のコインになっているのだから、会った時に気づくべきだった。愚かなのはアリッサだ。しかし――言わずにはいられなかった。 「教えてくれればよかったのに」 「皇帝だということを?」 「ええ……内緒にするなんて酷いじゃない」 「悪かった。言うタイミングを逃してしまったんだ。君の話が楽しくてつい」  アリッサは目をつり上げてユリスを見たが、その睨む顔にすら、ユリスは微笑みを返す。  そして二人は黙って半月を見上げたまま庭園を歩いた。手にはランプが一つだけ。気配は周辺にあるが、姿を見せない人がいるのはアリッサにも分かった。皇帝を守る護衛だろう。先日の件で警護を厳重にしたのかもしらない。  そしていつものガゼボを通りすぎ、先日老人と出会った庭の向こうにある、皇帝の居所にまで連れて来られると、アリッサは不安になった。ユリスは夜だからか、アリッサだからか分からないが、玄関から彼女を入れず、テラスのガラス戸を開けた。  カーテンが掛かった部屋の中に入ると、無数のランプが置いてあり、昼間のように明るかった。  ――書斎?  本棚が天井まであり、何千、いや、何万かもしれない、本がぎっしりと積まれている。目の前には猫足の華奢な脚の机があり、そこにランプが一つ置いてある。きっと昼間見たら、その豪華さに肝を抜かすような部屋だろう。でも、ランプに照らされている皇帝の書斎も幻想的でいい。マホガニーの家具の数々、飾られた花々、金の置き時計、歴代の皇帝の肖像画と思われる正装した男性の肖像画。どれもすばらしかった。 「アリッサ、聞きたいことがある」 「なに?」 「そのペンダントのことだ。いつ、誰に渡されたか覚えているか?」 「このペンダント?」  肌身離さずつけている、ペンダントに触れながらアリッサは首を傾げた。 「お父さまがくれたの、五歳の誕生日に、お母さまの形見だって」 「母親はいくつの時に亡くなった?」 「三つの時。でも記憶にはないの」 「母親に似ている?」  アリッサは暗い部屋に瞳を更に暗くした。 「似てないってよく言われたわ。性格も全部」 「君は正直、アルバン伯にも似ていない」  アリッサは瞳を上げた。言われ慣れているが、言われて嬉しい言葉ではない。 「なにが言いたいの?」 「先日、合った老人、イーザラン将軍を覚えているか」 「え、ええ」 「君にそっくりな人を知っているというんだ」 「それは誰?」 「マカルニアの亡命王族、セシリアーヌ王女だ」  アリッサは睫毛を瞬いた。 「聞いた覚えはあるか?」 「全くないわ」  アリッサの前でユリスはペンダントを机の上に置いた。 「ペンダントの中身を見よう」 「中身を見るためには、ペンダントを壊さないと。金で止められているんだもの」 「壊して見てみるんだ。なにが入っているのか」 「嫌よ。壊したくない。お母さまの形見なのよ」 「でも、他にも形見はあるだろう?」 「…………」  アリッサは俯いた。 「どうした?」 「これしかないの。お母さまの形見はこれしかないの……他のはすべてお姉さまに残したから……」  アリッサは泣きそうになった。長女がすべての財産を受け継ぐべきだと思っているような古い家がアルバン家なのだ。だから、亡き母は姉にだけ、宝石類を渡し、アリッサにはこの金のペンダント一つを与えた。 「なら、なおさらおかしいと思わないか。なぜ、姉妹で公平にしなかったのか」 「お姉さまは完璧な淑女で、わたしは一族の黒い羊だって言われているの。それでよ。昔からそう」  アリッサは忘れかけていた劣等感を思い出して重い息をついたが、首を上げ、そこに掲げられている肖像画を見ると首を傾げた。 「アリッサ?」  アリッサは机の上のランプを持つと掲げて見た。 「エデム叔父上だわ」 「エデム叔父上?」 「ええ。わたしの叔父よ。五年前に亡くなってしまったの。時々、領地に来てはお菓子やおもちゃをたくさんお土産に持ってきてくれた、一番大好きな人。どうしてここに肖像画が?」  ユリスは、アリッサの横に並ぶと肖像画を黙って眺めたあと、おもむろに彼女に向き合った。 「間違いないか、この人は君の叔父だって」 「間違いようがない。あの顎髭、頬のホクロ、厳めしそうな目、肖像画では分からないけど、首の後ろに大きなイボがあったのよ」  ユリスは黙り、アリッサが持っていたランプで絵をもう一度、照らした。 「これは――俺の父のドーダンベール二世だ。ミドルネームをエデムという――」  アリッサは言葉の意味が分からなかった。
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