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4  夜、十時が過ぎた頃。サー・ロイドがジュエルの執務室に書類とともに現れた。 「殿下、ルシアナ・アルバンとの婚礼について、そろそろ決めなければなりません」  サー・ロイドが深夜の執務室で持ち出したのは、ジュエルがずっと避けてきた話題だった。ジュエルは羽ペンをペン立てに戻すと、深く絹張りの椅子に座る。もう夜も遅く、侍従は下がらせてあるので誰も他にいなかった。こういう時は正直な気持ちを側近にもらせる。 「とてもそんな気になれないな」 「なにがご不満ですか、ルシアナ嬢は美しい人です」 「ああ。評判通りにね」  確かにまれに見る美しい令嬢だ。しかし、ジュエルは不満だった。彼女の優雅で完璧なところも、慈愛に満ちた様子も好きではなかった。思い出される女性がいるのだ。先帝の正妃――つまり今や皇太后として墓地で眠る人によく似ているのだ。サー・ロイドは代替案を示した。 「では、妹のアリッサ嬢はどうですか。アルバン伯は気を遣って、妹も寄こしたのですから、どちらかは正式に娶られませんと」  つまり、閨を共にするという意味だ。ルシアナは正妃、アリッサは妃となる。ああ、そう。母のように――側妃に。 「アリッサは可愛いね。無邪気でいい。しかし、姉のルシアナを飛ばして妹を――というのは宮廷の仕来りに反する」 「まぁ、そうではございますが――」  サー・ロイドはなぜ、ジュエルがルシアナのような女性に興味を抱かないのか不思議な様子だが、説明は難しい。まさか、自分の母が、嫉妬に狂って殺した相手を思い出されるなどとは言えない。郊外の屋敷で軟禁されている生母に万一のことがあってはならないのだから。 「ルシアナは退屈だね。美しいが宮廷のどこにでもいる美しさだ。同じ服を着せて宮廷の美女たちと共に並ばせてごらん、どれがルシアナか分からないから」  サー・ロイドはそれに薄ら笑いを浮かべた。  「確かにその通りです」 「アリッサはそこへいくと違うな。どこにいても分かる」 「殿下、お任せ頂ければ、アリッサだけを得る方法はあります」 「どんな?」 「ルシアナに病気になってもらうのです」 「毒か――悪くないな」  宮廷で生き残るにはありとあらゆる手段が必要だ。だが、今はその時ではない。ようやく兄の一派からこちらに鞍替えをしてくれたアルバン伯の機嫌を損ねてはならない。 「それは時期を見てだな」 「御意」  サー・ロイドは傍らで頭を下げた。側近となって十年と彼はジュエルを支えてくれている。数少ない、正直な心を話せる貴重な人物である。ルシアナとの結婚もこの者の提案だったが、残念ながら、アルバン伯の信用を完全に得るまでにはもう少し時間が必要そうだ。 「他にも僕の妃に娘をしたいと言う貴族はたくさんいる。その誰かに惹かれることもあるだろう」  サー・ロイドは手にしていた書類をジュエルの机に置くと、サインをする場所を指し示しながら言った。 「しかし、殿下は何人、娶るご予定ですか。公平に選ばなければ逆に貴族たちに不満が募ります。あいつの娘は妃になれたが、うちの娘はなれなかったなどと――逆に恨みを買いかねません」 「亡き先帝陛下、父上には一人の正妃と三人の妃、十人の側室がいた。僕もそれくらいは欲しいね、その娘たちの父親の後ろ盾が」  父は誰も愛してはいなかった。利用するだけ利用して女どもを捨てた。恋などしたこともないに決まっている。ジュエルは、言われるままにサインを書類にするのを拒み、立ち上がると、サイドボードに行った。酒類が並んだそこから、兄から贈られた極上のウイスキーを選ぶ。兄はいい。冷酷だと皆が言うが、たいていそれはジュエルの派閥が流した噂で、罪を負った使用人や貴族を簡単に辞めさせたり、投獄したりするのを誇張して噂させているだけで、毒をジュエルに盛ったりしないから、安心して酒が飲めた。 「お前も一杯付き合え」 「感謝いたします、皇太弟殿下」  ジュエルはグラスを少し揺らしてから酒を呑んだ。熱いものが喉を通るたびに嫌なことを忘れさせてくれる。ここのところ、酒を過ぎているとは分かっているが、もう一杯、注ぎ、サー・ロイドの心配げな視線を感じた。 「殿下」 「心配ない」  主の機嫌を損ねかけたのを繕うようにサー・ロイドは話題を変えた。 「そろそろ時が来たのではないのですか」 「時とは?」 「もちろん、時とは時です。皇太弟殿下がいつまでもあの方の風下にいる必要はないのでは?」 「皆がそう言っているのか」 「御意」  時――もちろん、皇帝を弑する時を意味する。  謀叛を平気でサー・ロイドが唆したことに、ジュエルがさして驚かないのはこれが初めてのことではないからだ。計画は幾度となく持ち上がり、そして取りやめ、あるいは失敗している。今度こそ完璧な準備を経て行わなければならない。しかし、なかなかその機会は訪れず、先日遣わした刺客も帰ってはこなかった。 「慎重に慎重を重ねなければならない」 「もちろんでございます」 「兄上は用心している。どこに行くにも護衛は欠かさず、一人でいるように見えて誰かが隠れて必ず守っている。毒にももう慣れてしまわれたのではないかと思うほど強いだけでなく、勘がいい」  兄を殺して帝位につく――。  これは母から受け継いだ悲願だ。兄さえ、死ねば母の軟禁は解け、「皇太后」の称号を得てこの国に君臨することすらできる。今のままでは、小さな田舎屋で侍女などもなく軟禁されたまま忘れ去られ、死を待つだけだ。  ――会いたい。  その思いは十歳で母と別れてからますます強くなっていた。会うためなら、どんなことでもする――ジュエルはそう思うと酒をぐいっとまた飲んだ。 「とにかくアルバン伯だけを特別扱いするつもりはない。他の貴族の娘も後宮にいれる。そうでなければ、派閥の結束力に問題が起こる」 「しかしながら、皇帝陛下よりも先に多くの妃を持つのは反対を受けるかもしれません。陛下は一人も妃をもっていないのです。アルバン伯も二人妃を上げられず、一人を『行儀見習い』などとしたのもそれが一因です」 「かまわない。俺は兄上より先に跡継ぎをもうけなければならないのだから、多少の批判などどうということはない」 「御意」 「それか、兄上に対してもお節介を焼いて、間諜になれる女を送り込むか――」  ジュエルは広い書斎を見渡した。グラスを片手に窓の外を見る。庭は半月に照らされて明るく、ふと見ると、ランプを一つ手に持つ兄の姿があった。その腕に手を置くのは女人。それも寝衣の姿にガウンを掛けただけのしどけない姿だ。 「アリッサ……」  ジュエルはあまりのことに取り乱し、グラスを置くと、すぐにカーテンを閉めた。サー・ロイドにも知られてはならない。そんな赤っ恥を掻くことはとてもできなかった。  ――アリッサ・アルバン!  ジュエルの拳がぎゅっと握られた。裏切りはなによりジュエルが嫌うことだ。  それに問題はアリッサの不貞ではない。公には彼女は妃の妹でしかないのだから。  重要なのは、ついに兄の魔の手がジュエルに伸びていることを意味していた。しかも、後宮という守備の弱いところをついて――。  ――状況を冷静に判断しなければ……。  しかし、ジュエルの心は乱れ、兄に対する憎しみが一気に湧き上がった。  ――ただではおかない。  さきほどまで、謀叛に消極的だったジュエルが、確実に兄の命を射止めることを誓ったのはおそらくこの時だった。
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