1/1

206人が本棚に入れています
本棚に追加
/19ページ

序  そこは暗闇の部屋だった。  真昼の光は紺色のベルベットカーテンにより遮られ、物音は看護婦と医者の二人の足音が隣の部屋から聞こえるだけ。神父はなにも言わずに患者が眠るベッドの足元に聖書を持って立っていた。  アルバン伯は患者の手を握る。力なくその手が握り返され、虚ろな視線がこちらを向いた。 「あの子のことを頼む」 「もちろんだとも、ルイ」  患者はアルバン伯と同じ二十代半ばだというのに、もう四十を越えたように見えるほど顔が黒ずみ、そしてくぼんでいた。もう言葉を言うのも絶え絶えで、苦しいだろうに心残りを口にする。 「あの子にはあの子の運命に出会って欲しい」 「もちろんだとも」 「あいつがなんと言おうと、僕はあの子の幸せだけを望んでいるんだ」 「分かっている、分かっているよ、ルイ」  患者の手が強くアルバン伯の手を握りしめた。手が汗ばむのは「あいつ」が誰であるのか分かっているからだ。自分は「あいつ」に逆らえるだろうかと。 「くれぐれも頼んだ、アリッサのことを――」  静かに目を閉じた男。そして、横たえていたベッドで、すとんと事切れた。握り締められていた手からは力が消え、神父が十字を切って、永遠の眠りを祈る言葉を捧げる。  アルバン伯はベッドサイドに頭をつけ、ひとしきり涙を流すと立ち上がった。階下から赤子の泣き声がしたのだ。涙を拭いて、何事もなかったかのような顔を作ると、階段を下り、乳母から赤子を受け取ると、無言で馬車に乗る。細雨が霧を作る午後だった。馬蹄の音は小刻みよく石畳に響いたおかげで泣き止んだ赤子を、初めてまじまじと見た。緑の目を持つ子はにこりと微笑み、アルバン伯の指をしっかりと握る。  ――運命か……。  彼はぽつりと呟き、親友が向かったであろう、雨空の向こうを見上げた。
/19ページ

最初のコメントを投稿しよう!

206人が本棚に入れています
本棚に追加