第3話:気絶

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第3話:気絶

 皐月たちが応接室から姿を消した後も、菖蒲は暫し朧げに座っていた。  どうやら、自分は己を虐げる環境から解放されたらしい……。  そう思うのが精いっぱいだった。  数分も経たずに凛が戻り、明臣が尋ねる。 「凛、風呂の用意はできているか?」 「完了しております」  明臣はソファから立ち上がり菖蒲の隣に腰掛けると、愛でるように言う。 「菖蒲、疲れてしまったね。まずは風呂に入っておいで。ゆっくり安らぐといい」  その言葉を聞き、菖蒲は意識が鮮明となった。  今の自分は埃まみれで汚れている。 「九条様、申し訳ございません……。私などが入浴しては浴槽が汚れてしまいます。近隣の銭湯などを使用した方がよろしいかと存じます」  内薗家において、菖蒲は常に一番最後の入浴しか許可されなかった。  皐月たちが入る前に浴槽が汚れては困るから。  実家での暗い日々を思い出した菖蒲に対し、明臣はさらに優しく話す。 「浴槽の汚れなど、そんなことを君が気にする必要はない。この屋敷の物は全て菖蒲のためにあるんだから。それと、私のことは明臣と呼びなさい。夫婦なのに苗字で呼ぶのは不自然だろう?」 「わかりました……」  浴槽の汚れと名前呼びの件、両方に対して菖蒲は了承の意を示した。  明臣は満足した様子で、凛に声をかける。 「凛、菖蒲に風呂を頼む。食事の用意も進めてくれ」 「かしこまりました。奥様、ご入浴をどうぞ」 「え……あ、は、はいっ……」  凛は手を差し伸べ、立ち上がる菖蒲を気遣う。  皐月たちとはまるで違う対応に戸惑いながらも、菖蒲は凛の後に続く。  また後で会おうね、菖蒲……という明臣の穏やかな声を背中に残して……。 □□□ 「あの……一人で洗えますから」 「奥様、どうか身をお任せください。隅々まで汚れを落とさせていただきます。この世の至宝たる奥様がくすんでしまっているのは耐えられませんので」  内薗家の風呂の七倍はあるかというほどの大浴場で、菖蒲は凛の丁寧極まるスポンジ捌きを受けていた。  身体を洗われ髪を洗われ、高価な舶来品の石鹸は清潔感のある香りを放ち、菖蒲を癒す。  繊細な石鹸の泡立ちは菖蒲の汚れと内薗家での暗然たる日々を洗い落とし、彼女の身も心も軽くした。  散髪代を節約するため長く伸ばした黒髪が綺麗になるのを感じながら、菖蒲は感謝の気持ちを口にする。 「凛さん、こんなに丁寧に接してくださってありがとうございます。身体がさっぱりしてとても気持ちがいいです」 「いえ、感謝するのは私の方でございます」 「えっ……?」  凛は菖蒲を洗う手を止めずに淡々と、しかし尊敬の意を込めて話す。 「奥様のおかげで、旦那様は妖との戦闘の日々でも大きな怪我なく無事に過ごされております。特に、今回東北に現れた妖は相当強力でした。奥様の護符がなければ、いくら旦那様と言えど死の危険があったと思います」 「そんなに強い妖だったのですか……。お役に立ててよかったです」  菖蒲は妖についてそれほど詳しくはないが、凛の口振りから想像以上に強い妖だったのだとわかる。  そのまま、凛は手を動かしながら続ける。 「当主たる旦那様が死なれては、私たちもいずれ死んでしまいます。ですので、奥様は私たちをも救ってくださっているのです」  凛の話を聞き、彼女もまた鬼なのだと菖蒲は思った。  そのまま凛に泡を落としてもらい、湯船に浸かる。  温かな湯はやんわりと滑らかに菖蒲を包み、愉悦の一時を与える。  極楽という言葉は、まさにこの瞬間のためにあると菖蒲は思った。  今までの癖で縮こまって湯を堪能する彼女に、凛が静かに告げる。 「奥様、どうぞ身体を伸ばしてくださいませ。旦那様も仰った通り、この大浴場は奥様の物なのですから」 「わ、わかりました」  凜に言われ、菖蒲は慌てて身体を伸ばしてみる。  たったそれだけで、湯の安らぎは一段と増した。  風呂がこれほどくつろぐ場所だったとは、菖蒲は九条家に来て初めて知った。  しばし湯に浸かった後、菖蒲が止める間もなく凛が彼女の身体を拭き、上等な着物を用意する。  菖蒲が銀通しの鶴があしらわれた深蘇芳色の着物に、落ち着いた藤色の袴に袖を通すと、上品さと気品を兼ね備えたハイカラで可憐な少女がそこにいた。 (菖蒲は知らなかったが、着物に描かれる鶴は夫婦円満を意味する)。  凛に連れられリビングに行くと、すでに明臣が鏡のごとく磨き上げられた黒塗りのテーブルに座っていた。 「菖蒲、屋敷に来た時よりさらに綺麗になったね。目を奪われてしまうよ」 「あ、ありがとうございます」  凛に促され菖蒲もアンティーク調の西洋椅子に座る。  屋敷の規模を考えると巨大な一枚板のテーブルでもおかしくなかったが、置かれていたのは四人程度で座るのに程よい大きさの物であった。  無論、その方が菖蒲との距離が近いためである。  菖蒲が座ると、凛が料理を運び入れた。  一品目は季節の野菜のサラダ。  レタスの美しい緑や生命力あふれる赤いトマトなど……、色とりどりの自然の色が眩しい。  まだ未成年の菖蒲を気遣って酒は用意されず、代わりに高級なほうじ茶が出された。 「さあ、いただこうか」 「……いただきます」  明臣とともに食事への感謝を述べ、菖蒲はフォークを取る。  二品目は深い琥珀色のコンソメスープ、三品目は真鯛のポワレ……。  内薗家にいては永遠に食すことがないであろう品の数々だったが、菖蒲は積極的に口に運んだ。  もたもたしていては凛に食べさせられそうだったから。  何はともあれ、どの食事も目で舌で菖蒲を楽しませ、彼女の空腹を満たす。  明臣もしばらくは話すことなく、共に静かに食事を楽しんだ。  デザートのカステラが出されたところで、明臣はそっと菖蒲に尋ねた。 「食事は口に合ったかな? 様子を見た限り気に入ってくれたみたいだが」 「はいっ、本当においしかったですっ。こんなにおいしく、そしてたくさんのお食事をいただいたのは……それこそ十年ぶりくらいかもしれません」  おいしいという言葉に嬉しさを感じるとともに、菖蒲の境遇を思うと胸が苦しくなった。 「やはり……君はとても辛い日々を送ってきたんだね。守ることができなくてすまなかった……」 「い、いえ、明臣様が謝られることはありませんのでっ!」  申し訳なさそうに首を垂れた明臣に、菖蒲は必死で伝える。 「これからは私が君を守る。ずっと傍にいなさい」 「ありがとうございます、明臣様」  力強く言ってくれた明臣に菖蒲は感謝し、兼ねてから疑問に思っていたことを尋ねる。 「あの、明臣様」 「なんだい、菖蒲」 「なぜ、人の伴侶を募集されたのでしょうか。……あ、いや、大した意味はなく、鬼と人の結婚は珍しいと思いまして……」  世間において、鬼の嫁は鬼が通説だ。  自分が知らぬうちに結婚が決まったとき菖蒲は驚きと明臣への恐怖を抱いたが、同時になぜ人の嫁を……? という疑問も持っていたのだ。 「人は死ぬと、魂が天国へ旅立つ。だが、妖は違う。完全に消滅してしまう。訪れるのは“永遠の無”しかない。だから、私たちは長く生きる分、“死”に対しての恐怖が強いんだ」 「死への恐怖……」  明臣の言葉に、菖蒲は深く共感する。  彼女にとっても、死は恐ろしく恐怖の象徴であった。 「私は自分の子に、そのような辛さは味わってほしくない。だから、人間との間に子を成そうと決めた」 「そうだったのですか……。明臣様が伴侶を募集された理由が初めてわかりました」  子どもを大事に想う気持ちは、人間とまったく同じだ。  いや、それ以上の尊い思いがある。  鬼ではなく人間の伴侶を選んだのだから。  恐ろしいという噂は間違いだったのかな、と菖蒲は少しずつ思い始めていた。  やがて食事も終わり、食後の珈琲を飲むと明臣が告げる。 「そろそろ寝ようか。寝室に行こう」 「はい」  席を立った明臣に続いて長い廊下を進み、菖蒲は障子張りの部屋に着いた。  明臣が障子を開けると、芳醇な藺草の香りが鼻をくすぐる。  新しい畳の香りを楽しむ間もなく、その時初めて菖蒲は気づいた。  流されるまま寝室へ来てしまったが……この後はどうなるのだろうか?  いつの間にか凛は姿を消しており、明臣と二人きりとなる。 「さあ……一緒に寝よう」 「ぇぁ……? は、はい……」  明臣は菖蒲をさらりと布団に寝かせ、彼女の頬をそっと撫でる。  その陶器のように美しく、冷たくも温かい指。  目の前に迫るは、わずかな明かりでも神々しく輝く銀髪に赤目の美男子。  鬼であろうが、れっきとした男性だ。  というより、菖蒲は未だかつてこれほどまでに男性に近寄られたことはない。  彼女の思考回路は乱れに乱れ、視線は右往左往する。  緊張と混乱でもう何も考えられない。 「あ……ひゃっ……ぁぅ」  菖蒲は恥ずかしさのあまり気絶した。
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