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第7話:百貨店にて
□□□
「……どきたまえ」
祓魔局の執務室に入室した明臣は、開口一番煩わしさを感じる声で告げた。
顎に手をつき涎を垂らしながら、筋肉質の大きな男が寝ている。
明臣の両袖机で。
質の悪いことに、見知った人間であった。
「……んぁ? ……なんだよ、もう来たのかよ。せっかく良い寝心地だったのに。……まぁ、いいや。今度からはもっと遅くきてくれ」
「どきたまえ」
「お、おい、やめろっ。押すなって」
なおもだらだらと二度寝を決め込もうとする男を、明臣はアンティーク調の西洋椅子から引き剥がす。
このやり取りは、明臣の辟易とする毎日であった。
寝ていたのは、時雨幸之進、二十四歳。
祓魔局の副局長を務める男である。
硬質な黒い髪を短く刈り込み、一重の力強い目はどんな敵も逃さない。
“風を操る”という強力な異能を持ち、明臣にまったく恐怖しない稀有な人間でもあった。
幸之進は生活費を節約するため、祓魔局に許可なくしょっちゅう寝泊まりする。
特に執務室は一番居心地が良いので、彼の“ちょうどいい寝床”にされていた。
「おやおやおやぁ?」
「……なんだ」
不機嫌な顔で机を拭く明臣に、幸之進は締まりのないにやけ顔を向ける。
「なんか嬉しそうなことがあったんだろぉ、明臣ぃ。口角が上がっているぜぇ~? ……わかった! 結婚だな! 嫁が来たんだろ!」
「……」
幸之進は粗雑な人間のくせに、他人の機敏には聡い。
大事な友と想う故、明臣の微妙な変化に関しては人一倍嗅覚が鋭かった。
菖蒲との結婚については、今日祓魔局に周知する予定だ。
だが、この男には一番最後に伝えたい、と明臣は思う。
「なんだよなんだよ~。親友には一番最初に報告するもんだろ~? 恥ずかしがり屋かぁ~?うりうり~」
幸之進は嬉しそうに肘で明臣の脇腹を小突く。
ヘラヘラと笑いながら。
「……君を左遷させてもいいんだぞ? 糸満か樺太か……」
「冗談だって! わかるだろ、それくらい!」
「待ちたまえ。今辞令を書く」
「おぉい!」
幸之進が騒ぐ中、明臣は早く菖蒲に会いたいと思う。
強く。
□□□
菖蒲が九条家に訪れてから、すでに二週間ほどが過ぎた。
相変わらず、菖蒲は小鳥のように愛でられる日々を送る。
鬼桜を復活させた一件は、当日のうちに九条家をそれこそ稲妻のごとく駆け巡った。
一族のシンボルである大事な桜を蘇らせてくれた奥様……。
今や、菖蒲は歩くだけで深く感謝されてしまう。
凛もまた、菖蒲の近くでお世話ができるということで、他の使用人から羨望の眼差しで見られていた。
朝餉後のほうじ茶を嗜んだ後、明臣が優しく話す。
「菖蒲、今日は百貨店に行こうか。夜会服を買って上げないといけないからね」
「お屋敷にある衣服でよろしいかと……」
「そういうわけにはいかないよ。菖蒲の美しさをみなに見せるのは癪だけどね」
来週末、中央局の幹部を集めた晩餐会が開かれると、菖蒲は聞いていた。
大蔵局や通商産業局、総務局……などなど、無論祓魔局も含まれる。
菖蒲は明臣の妻であるので、それなりの盛装が求められたのだ。
「いや、しかし……。明臣様のお仕事の時間は大丈夫でしょうか」
着飾ることに慣れない菖蒲は、どうにかして百貨店行きを回避したかった。
平日なので、祓魔局の仕事があるはずだろうと菖蒲は思う。
「心配しなくていい。今日の仕事は午後からなんだ。尤も、菖蒲のためならばどんな仕事も後回しにする所存だが」
「どうかお仕事の方をご優先してくださいませ」
結果、百貨店行きは決定事項となった。
なぜか誇らしげに先導する凛に続き、菖蒲は明臣と共に九条家の自動車に乗り込む。
そのまま凛が運転し、一行は帝都東京で一番の百貨店“奉日本屋”に到着した。
「それでは、私は車を置いて参ります」
「ああ、また後で会おう」
「お願いいたします」
凛を見送り、菖蒲と明臣は奉日本屋の前に立つ。
白煉瓦が積み上げられた地上七階建ての剛健な建造物。
店の前には大通りが東西に延び、煉瓦造りの頑丈なアーチ橋で帝都東京のシンボルでもある“帝都大桟橋”が向こう岸と繋ぐ。
縦と横に巨大な面積、そして鉄道の駅から一直線に繋がるような一等地に立つことからも、いかに名高い店かわかる。
すでに菖蒲は圧倒されていたが、明臣はまったく物怖じせず正面玄関へと彼女を連れて行く。
歩きながら、菖蒲はふと疑問に感じた。
「明臣様、まだお店は開いていないのではないでしょうか」
朝早いこともあり、開店まではおよそ二時間ほどある。
通行人がまばらなのも、きっとそのためだ。
菖蒲の問を聞くと、明臣は微笑みをもって答えた。
「大丈夫。もう開いているんだ」
なおも疑問が頭に浮かぶ菖蒲を後ろに、明臣は回転扉を開ける。
ランプの柔らかい明かりに照らされる中、菖蒲は目に飛び込んだ光景に大変驚愕した。
「「お待ちしておりました、九条様っ!」」
店員が一部の隙もなく左右に整列し、菖蒲と明臣を出迎える。
仰天する菖蒲の一方で、明臣は挨拶を済ませた。
二人が入店したのと同時に、ロビーの奥から一人の恰幅の良い男性が歩いてくる。
奉日本屋の外商部門の部長を務める男、桐ケ谷である。
「おはようございます、九条様。またお会いできて光栄でございます」
「おはよう。朝早くにすまないな」
「いえいえ。明臣様の頼みならば、奉日本屋は昼夜を問わず開店できます故。……おや、そちらが奥様でございますか?」
桐ケ谷は太縁のべっ甲眼鏡をかけ直しながら、菖蒲を見た。
明臣はやや得意げに彼女を紹介する。
「ああ。私の妻、菖蒲だ」
「初めまして、菖蒲様。奉日本屋の桐ケ谷と申します。どうぞ、以後お見知りおきを」
「よ、よろしくお願いします」
ぺこりとお辞儀する菖蒲を、桐ケ谷始め奉日本屋の面々は小動物を見守るような、微笑ましい気持ちで迎え入れた。
「奥様は九条家の……いえ、全人類の至宝でございます。その御姿を目に刻んでくださいませ」
「り、凛さんっ、いつの間にっ」
菖蒲の後ろから、凛がひょこっと顔を出す。
知らぬ内に戻った凛も合流し、桐ケ谷は菖蒲たち三人を奥の壁にと案内する。
帝都東京でもわずか十機ほどしかないエレベーターに、菖蒲は恐る恐る足を踏み入れた。
桐ケ谷がボタンを押し上昇する。
無論、菖蒲はエレベーターなど初めてだ。
内臓が浮き上がるような得も言われぬ感覚に、思わず菖蒲は明臣の外套の裾を握る。
明臣が心の内で悶えるうち、一同は最上階の七階へと到着した。
桐ケ谷は笑顔で二人を室内へ案内する。
「到着いたしました。明臣様、菖蒲様、どうぞお降りくださいませ」
菖蒲にとって、足を踏み入れることさえ憚れる豪奢な光景が広がっていた。
床には目にも鮮やかな赤絨毯が敷かれ、緩やかなアーチを描いた天井は十七尺ほども高い。
天井からは異国の宮殿にあっても不思議ではない豪勢なシャンデリアが吊るされ、壁際の広い窓からは帝都東京の全貌が見渡される。
菖蒲は、なるべく接地面積が少なくなる足運びを意識しながら明臣に尋ねる。
「あの……明臣様、ここはいったい……」
「奉日本屋の貴賓室だよ。君のために貸し切りにしたんだ。人がたくさんいては選びにくいからね」
「そ、そんな……恐縮でございます……」
百貨店の貴賓室と言えば、社会的に極めて身分の高い人物でなければ入室することさえ叶わない、ということだけは菖蒲も何となく知っていた。
まさか自分がそのような場所に来るなど思いもしなかったが……。
「では、さっそく試着を頼もうか」
「はい、準備は万端でございますよ……さあ、持ってきてくれ」
桐ケ谷が呼びかけると、店員がぞろぞろとドレスハンガーを持ってやってくる。
何を言う間もなく、菖蒲は高価なドレスの森に迷い込んでしまった。
「菖蒲、好きな物を好きなだけ選びなさい。どれを買ってもいいんだよ」
「あ、いや……あいにくと、私にファッションセンスはなくてですね……」
「それなら私が選んであげよう」
絹で織られたレースが散りばめられた物や、濃い本紫色のサテン生地の物、美しい空色のシャガードの物……。
運び込まれるドレスは、全てが帝都東京で最高品質の物ばかりだった。
まるで着せ替え人形のごとく回転する菖蒲。
「奥様、どれもお似合いでございます」
「菖蒲はどんなドレスも着こなしてしまうね」
桐ケ谷と店員がドレスを持ってきては凛が着せ、明臣に感嘆される時間を送り、菖蒲の初めてのドレス選びは終了と相成った。
サテン生地とシャガードの二着に決まりそうだったが、明臣と凛の希望により結局全て購入された。
ちょうど開店時刻の前に買い物は終わり、菖蒲たちは玄関ロビーへと戻る。
購入品は後日宅配にて九条家に届くため、手荷物はなかった。
「明臣様、菖蒲様、本日は誠にありがとうございました。今後ともぜひご贔屓のほどよろしくお願いいたします」
「うむ、おかげで良い買い物ができた。これからもよろしく頼む」
「あ、ありがとうございました」
桐ケ谷と店員たちに、それこそ帝を送り出すように見送られながら、菖蒲と明臣、そして凛は奉日本から出る。
開店を待つ買い物客たちのどよめきを聞く中、菖蒲はようやく落ち着いて呼吸ができた気分だった。
「では、私は車を持って参ります」
「頼む……いや、せっかくだから少し散歩でもしようか。仕事までまだ時間があるし」
「すごくいいですね。私も明臣様とお散歩したく思います」
ちょうど外の空気を吸いたかった菖蒲は全面的賛成の意を示し、明臣は己の提案が心よく受け入れられ顔が綻ぶ。
奉日本屋から足を延ばし、帝都東京駅まで散策することに決まった。
凛は大事な『でぇと』を邪魔しては悪いと言い、車の中で待つことになった。
明臣と並んで、菖蒲は帝都大桟橋を歩く。
長さはおよそ七十三尺ほどとそこまで長くはないが、橋の上から見る帝都の景色はまた違い、菖蒲の目を楽しませた。
「昼食で食べたい物はあるかい、菖蒲。帝都東京は洋食も和食も名店ばかりだ。好きな物を何でも用意しよう」
「そうですねぇ……」
ライスカレー、カツレツ、すき焼き……。
菖蒲の頭には数々の美味な料理が思い浮かぶ。
九条家の名店にも劣らない食事を楽しむうち、すっかり菖蒲は美食家となってしまった。
そんな自分に恥じながら頭の妄想を打ち消し、なるべく質素な料理を頼もうとしたとき……。
「お義姉様、ようやく見つけましたわ」
皐月、そして伊織と安次郎が立ちはだかった。
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