あいに染まり、黒に落ちる

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 久しぶりに入る英泉の画室は、雨上がりの陽光が差し込み、優しい明るさがあった。  高さのある天井と白い壁。造り付けの棚には、色とりどりの岩絵の具がずらりと並んでいる。描きかけの作品は細い紐で、天井の四隅から吊ってあり、月夜に光る川の風景、たおやかに咲く牡丹などが美しく並んでいた。 「これが『彼岸花』だ」  英泉の指の先を見て、仁平は息をのんだ。  背景の塗られていない和紙の中で、茎の深緑のみずみずしさと、白い彼岸花の神々しさが共存している。描き途中の作品ということもあって、背景は塗られておらず、花の描き込みも甘いが、見る者を魅了する力があった。  これにどんなメッセージが隠されているのだろうか、と仁平は絵に顔を近づける。  確かに素晴らしい作品ではあるが、主義主張も何もない、ごく平凡な絵である。一目見れば犯人に繋がるヒントが読み取れると思ったのだが‥‥。自分の見当違いであったと、仁平が肩を落とした。  そのときだった。  大きさにして五センチほどだろうか。  絵の左下部分が破られていることに気づいた。  なぜこんな場所が? と首をかしげて、仁平は絵を見つめる。さらに目を凝らすと、破れた場所の上あたりに、漢字の部首———草冠のようなものと、その下には長さの違う二本の横線が、墨で書かれていた。 「先生。ここには文字が‥‥いや、もしかして画賛(がさん)のようなものが書いてあったのですか?」  仁平はそう言いながら、英泉のほうを振り返った。英泉は壁に寄りかかったまま、仁平を通り越して『彼岸花』を見ている。  画賛とは余白部分に書き込まれる書のことで、絵の内容に関連した語句や詩、俳句などを指す。作者自身が賛辞を入れることを自画自賛とも呼ぶが、そこにマイナスイメージはなく、むしろ思い入れの強さがうかがえる。  つまり、この『彼岸花』は景藍にとって大切な作品であるということだ。 「さあな。受け取ったときにはもう破かれていたよ」  英泉に言われて、はっとした。  景藍の口から出てきた紙は、破かれた画賛ではないだろうか。  草冠、二本の横線、破かれた『黒』、それをつなぎ合わせて浮かび上がる文字は———。 「薫」  仁平は声を震わせて言った。  芦田薫(あしだかおる)、こんな形で再び彼女の本名を口にするとは思ってもいなかった。 「なあ、仁平。白い彼岸花の花言葉を知っているか?」  英泉の問いかけに、仁平は首を振った。 「想うはあなたひとり、だ」  柔らかな声で英泉が言った。  まったく予想していなかった形で、望んでいた好機がやってきたのである。仁平は額に手を当てながら、口元を微かに歪めた。
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