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その日の夕刻、黒瀬邸の前に一台のタクシーが到着した。降りてきたのは和装姿の名月だった。『彼岸花』を返すという口実で、仁平が呼び出したのである。
「忙しいのにごめんね。先生には外出してもらってるから、どうぞ楽にして」
英泉の画室に案内してすぐ、仁平は名月を『彼岸花』の前に座らせた。静かに画面を見つめる彼女の目元は、茶色く縁取られている。
「ねえ‥‥どうして絵が破れているの。私が最後に見たときはこんなふうになってなかったのに」
「景藍さんが破いたんだよ」
「そんなの信じられない」
景藍が作品を傷物にしたことがよほど気に入らなかったのか、名月の声色には怒気が含まれていた。しかし、「景藍さんの口から、『黒』と書かれた紙が出てきたことは知っているかな?」と、仁平は落ち着いた調子で訊く。
「昨日の取調べで聞いた。‥‥もしかしてその紙切れが、破いたものだったっていうの?」
「そうだ」
「へぇ、そっか‥‥先生はこの絵に画賛を入れていたのね。黒瀬基の『黒』と」
そう言うなり、名月は冷え冷えとした声で切り出した。
「先生はね。私のことを大切だと言っていたわ。だから、愛しい人の髪を撫でるように、彼岸花を描く先生を見て、私に向けて描いていると信じていたの。‥‥まさか英泉に渡すなんて」
「景藍さんは余命僅かだった。描く体力のない自分の代わりに、誰かを頼るのは悪いことじゃないだろう」
仁平の言葉に、名月は唇を噛み締める。
「だったら私を頼ってくれれば良かったじゃない。病気のことだってそう。英泉には話していたのに、私には病状が悪化するまで話してくれなかった」
涙を浮かべる名月を見ていると、「お互いを想っていたのに、すれ違ってしまったんだな」という英泉の声が、鼓膜の奥に蘇る。
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