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ブラックコーヒーをあなたと
両手でティーカップを持ち、ゆっくりと口に運ぶ。
少しだけすすったそれは思っていた以上に苦くて自分でもひどく顔をしかめているだろうということがわかる。
あれから私はブラックコーヒーは飲まないようにしていた。あの苦みが、あの時の辛い気持ちを思い出させるから。
でも、もう苦いからって残したりするほど子どもじゃない。
そんな私を見て透さんはクスリと笑う。
「まりあちゃん、お砂糖いれたら?」
「大丈夫、です」
目の前にいる彼はブラックコーヒーを優雅に飲んでいる。その姿は七年前と変わらない。
落ち着いていて優しい表情を私に向けてくれる。
私も同じように優雅にブラックコーヒーを飲んで美味しいですね、って言えたらよかった。
あの時は言えるようになるつもりだった。
私は七年ぶりに飲むブラックコーヒーの苦みにこれまでの想いを嚙み締める。
「私、ちゃんと大人になりましたよ」
「うん。すごく素敵な女性になったね」
女性、その言葉が無性に嬉しかった。私のことを忘れないでいてくれたことも。
まさか透さんが私に会いに来てくれるなんて思っていなかった。
黒澤透さん、十歳年上の私の婚約者だった人。
今時婚約者なんて時代遅れな関係なように思えるが、私が生まれた時にお互いの祖父が決めた。
大手建設会社の黒澤建設の会長である透さんの祖父とその下請け会社の天川土木社長である私の祖父が会社同士の結びつきを強固にするために決めたものだった。
この婚約は当人たちの意思は関係なく結ばれ、そしてあっけなく破棄された。
透さんが十歳の時に私は生まれた。
幼い頃から頻繫に会い、一緒に食事をしたり祖父と黒澤さんの家に行っては、祖父たちの用事が終わるまで遊んで貰っていた。
いつも優しくて、幼く拙い私の話をニコニコしながら聞いてくれる。
どんなにわがままを言っても可愛いねって、受け止めてくれるそんな透さんを誰よりも慕っていた。
小学生になった頃には漠然と、私はこの人と結婚するんだと認識するようになっていた。
けれど、それはただ祖父に言われるがまま、私はこの人と結婚するんだな、くらいの感覚だった。
そんな透さんのことが男の人として好きだと気付いたのが十五歳の時だ。
高校生になったばかりの頃、学校の帰り一人で街を歩いていると綺麗な女の人と肩を並べ歩いている透さんを見かけた。
その瞬間、今まで感じたことのない黒い感情がふつふつと沸き上がる。透さんは私のなのに。
気付いたら私は二人の前に立ちはだかっていた。
今思えば本当に幼稚な行動だったと思う。当時の私はそれほど子どもだった。
――――――――――
「透さんっ」
「まりあちゃん……」
驚いた様子の透さんと、突然目の前に現れた制服姿の私に怪訝そうな目を向ける女の人。
「もしかしてこの子が高校生になったばかりだっていう婚約者? 本当に子どもじゃない」
その人はまるで勝ち誇ったような顔で透さんの腕に自身の腕を絡め、嘲笑うように私を見下す。
「こんな子より私のほうが黒澤くんを支えてあげられるわ。ねえ、あなたもそう思うでしょ? 自分より私の方が黒澤くんに相応しいって」
その自信に満ちた表情に、大人の色気をまとったその女性に今の自分がみじめに思えてくる。
勢いで飛び出したものの、その圧倒的な違いにひるんでしまう。
拳を握りしめて俯いた私は、その場から去ることも何か言うこともできない。次第に目頭も熱くなり肩が震えてくるのもわかる。
でも、ここで泣いたりなんかしたらそれこそ子どもっぽくてみじめだ。
「すみません、森崎さん。今日はここで失礼させていただきます」
透さんはそう言うと、森崎さんというらしい女性の腕を自然に解き私の手を取って歩き出す。
森崎さんはひどく驚いた顔した後、睨み付けるようにこちらを見ていた。
手を繋いで歩くのは久しぶりだ。小さい頃はよく手を引いてくれていたが、小学校高学年になったくらいから繋がなくなっていた。私が透さんの手を握らなくなっていたから。
けれど久しぶりのその大きな手は変わらず優しくて温かくて安心した。
透さんは近くにあった一軒の喫茶店に私の手を引いて入っていく。
空いている席に座るとすぐに店員さんがやってきて透さんはコーヒーを注文した。
「まりあちゃんは何飲む? オレンジジュースにする?」
「えっと……私もコーヒーでいいです」
こんな趣のある喫茶店に入ったのは初めてだ。今まで甘いカフェオレしか飲んだことはなかったが、こういう所ではコーヒーを飲むものだと勝手なイメージがあった。
目の前に置かれたコーヒーは手に持っていないのにその芳醇な香りを漂わせ私の緊張を増幅させる。
透さんはそのままカップを手に持ち一口飲む。私も同じように一口飲んでみた。
「ん゛っ……」
苦い。苦すぎる。香りはすごくいいのにここまで苦いとは思わなかった。
たぶん、ひどい顔をしているのだろう。透さんは心配するように私を見る。
「無理して飲まなくていいよ」
「でも、残すのは……」
「僕がそれも飲むよ。何か他の頼む?」
なんだか申し訳なくて情けなくて首を横に振った。どんな時も優しくて大人な透さんに私はどう映っているのだろうか。そんなこと、考えたことなかったのに急に大きな不安が押し寄せてきた。
「透さんは、私との婚約どう思ってますか?」
私から婚約の話をするのは初めてだった。そもそも祖父同士が盛り上がっているだけで私たちが婚約の話をしたことはない。
高校生になったばかりの私と透さんが二人でそんな話をするわけもないのだが。
「まりあちゃんはまだそんなこと考えなくてもいいんだよ」
すごく、かわされたような気がする。そう、私はまだ高校生だ。
結婚できる歳でもないし、二十五歳の透さんからすればまだまだ子ども。
「透さんにとって私はどういう存在ですか?」
「もちろん可愛いと思ってるよ」
物心ついたときからずっと透さんは可愛いと言ってくれている。私が聞きたいのはそんなことじゃないのに。
「透さんは、私と結婚したいと思ってますか?」
こんなにはっきりと聞いたことなんてない。だって今まで何の疑いもなく私は透さんと結婚するのだと思っていたから。
友達が同じクラスの誰が好きだとか、どのアイドルグループの誰が好きだとか話をしていても興味がわかなかった。
優しくてかっこよくて、落ち着いていて大人な透さんより魅力的な人なんていない。私の中でそれくらい透さんの存在は大きかった。
そして、透さんが綺麗な女性と歩いているところを見てこれが恋心なんだと気付いた。
嫉妬、独占欲、自分の中に湧く黒い感情が今までの透さんへの気持ちが全てそうであったのだと思わせた。
それと同時に透さんはこういう大人の女性と結婚したいと思っているのかも知れない。そんなことが頭をよぎる。
「私みたいな子どもが婚約者なんて嫌ですか?」
「まりあちゃん……」
透さんは困っている。自分でも面倒くさいことを言っている自覚はある。それでも聞かずにはいられなかった。
「確かに君はまだ子どもかもしれない。だけどいつか必ず大人になる。その時僕はおじさんだよ。まりあちゃんが僕のことを嫌になっているかもしれない」
「そんなことないです! 私は透さんと結婚したいと思ってます。透さん以外の人となんて考えられないです」
例え十年二十年経ったって透さんはきっと素敵な人だ。嫌になるなんて考えられない。
「うん。そう思ってくれて嬉しいよ。でも先のことはわかないからね。まりあちゃんが大人になった時に考えよう」
透さんは少し手を伸ばし、私の前にあったコーヒーを自分のところへ移動させる。
私が一口飲んでいることを気にもせず口をつける。
「いつになったら大人になったと思ってもらえるんですか?」
「そうだな、ブラックコーヒーが飲めるようになったら、かな?」
透さんはいたずらっぽい顔でそう言った。
だったら早くコーヒーを飲めるようになろうと思った。少しずつ飲む練習をして慣れて、透さんと一緒にコーヒー美味しいねって言えるようになろうと。
でも、私がブラックコーヒーを飲めるようになることはなかった。
飲む気になれなかった。
その半年後に祖父の会社が倒産したのだ。
理由は祖父の会社が元請け会社である黒澤建設に水増し請求していたことが明るみになったから。
祖父の会社は多額の損害賠償を払い、契約を切られ倒産した。
多額の借金を抱えた天川家と縁を切るために母と父は離婚し、私は母について母の実家がある田舎へと移り住むことが決まった。もちろん、私と透さんの婚約もなくなった。
引っ越し前日、学校の帰り重い足取りで歩いていると急に腕を掴まれ路地裏に引き込まれる。突然のことに心臓がバクバクしたが、聞きなれた安心する声に違う意味で心臓が跳ねた。
「まりあちゃん」
「透さん……」
「ごめんね急に」
「いえ、もう会えないと思っていました。こんなことになって、きっと祖父のしたこと怒ってるだろうなって」
「まりあちゃんは何も悪くないよ」
祖父のしたことは本当に許されないことだ。学校でも祖父の会社のことは噂になっていた。仲の良かった友人は気にしなくていいと言ってくれたが、今日まで居心地の悪い日々を過ごした。
透さんにも愛想つかされたと思っていたのにわざわざ会いに来てくれるなんて。
「透さん、私明日引越すんです」
「うん、知ってるよ」
変わらない優しい声に思わず透さんの袖を掴み胸に顔をうずめた。
「なんでこんなことになったんだろう。私、何もしてない。何も悪くない。なのに、なんで、こんな逃げるようなこと……」
気付けば透さんの胸で涙を流していた。
「ごめんね。何も出来ない今の僕を許して」
透さんに謝って欲しかった訳じゃない。でも行き場のないこの思いをどうにも出来ない現状をぶつけてしまう。
そんな私をそっと抱きしめ優しく頭を撫でてくれる。その温かさにやっぱり好きだな、と思った。
「透さん、好きです。私みたいな子どもに言われても嬉しくないかもしれないですけど、透さんのことが大好きです」
透さんの抱きしめる腕が強くなる。
こんなふうに抱きしめられるのは初めてだった。
「僕もまりあちゃんのことが好きだよ」
その好きがどんな好きかはわからなかった。ずっと大切にされてきたのはわかっている。嫌われていないことも。でもきっと私と同じ好きではないのだろう。今まで一緒に過ごしてきた情なのかもしれない。妹とかに対するそういう好きかもしれない。
その意味を知るのが怖かった私は何も聞かなかった。
翌日、予定通り母と引っ越しをした。父は祖父と会社の対応に追われていたため見送りにはいなかった。
特別仲が良かったわけでもないが悪かったわけでもない私の家族はあっさりと離れていった。
あれから七年、そのまま母の故郷で高校を卒業し、専門学校で簿記の資格を取った後小さな会社の経理として就職した。
祖父と父とはもうずっと会っていない。でも忘れたことはなかった。
もちろん透さんのことも。
私の十五歳までの人生にはいつも透さんがいた。会わなくなって七年たった今でも私の中にはずっと透さんがいる。
引っ越してきてからしばらくして黒澤建設と森崎コーポレーションが業務提携したとニュースでしていた。
どこかで聞いた名前だなとぼんやり考えていらた透さんと一緒に歩いていた女性のことを思い出した。透さんはあの女性と結婚したのだろうか。私たちの婚約も会社の繋がりのためだった。そうなっていても不思議ではない。仕方がないと思っても心の中の黒い感情は消えてはくれなかった。
仕事の帰り、母と住むアパートまでの道を歩いていた。
ここに移り住み、もうすかっり見慣れた街並みが夕焼けに照らされた時間帯。
少し先の小さな橋の上でこちらを向いて佇む男性がいる。
逆光で霞んだその姿はまるで幻を見ているようで、私の思考は上手く働いていないような気がした。
だが、その大切な人を見間違うはずがない。
「透、さん……」
私が名前を呼ぶと透さんは安心したように笑う。優しく微笑む彼は七年前と全く変わっていなかった。
お互いにゆっくりと近づいていく。
「まりあちゃん、久しぶり」
「透さん、どうして……」
「うん。立ち話もなんだしどこか入ろうか」
私たちは近くの喫茶店に入った。七年間この街に住んでいて一度も入ったことのない喫茶店。
窓際の席に座ると二人ともコーヒーを注文した。
あれからブラックコーヒーは飲まないようにしていた。あの苦みがあの時の辛い気持ちを思い出させるから。
こんなことになるなら飲んでおけば良かったなんて思ってももう遅い。
二十二歳になった私は味覚が大人になり飲めるようになっていると信じるしかない。
運ばれてきたコーヒーを両手で持ち、ゆっくりと口に運ぶ。
少しだけすすったそれは思っていた以上に苦くて自分でもひどく顔をしかめているだろうということがわかる。
でも、もう苦いからって残したりすほど子どもじゃない。
そんな私を見て透さんはクスリと笑う。
「まりあちゃん、お砂糖いれたら?」
「大丈夫、です」
目の前にいる彼はブラックコーヒーを優雅に飲んでいる。その姿は七年前と変わらない。
落ち着いていて優しい表情を私に向けてくれる。
私も同じように優雅にブラックコーヒーを飲んで美味しいですね、って言えたらよかった。
あの時は言えるようになるつもりだった。
私は七年ぶりに飲むブラックコーヒーの苦みにこれまでの想いを嚙み締める。
「私、ちゃんと大人になりましたよ」
「うん。すごく素敵な女性になったね」
女性、その言葉が無性に嬉しかった。私のことを忘れないでいてくれたことも。
「透さんはどうして、ここに?」
「まりあちゃんに会いたかったからだよ」
私も透さんに会いたかった。会えないと思っていた。会いに来てくれるなんて思っていなかった。
ども、どうして会いに来てくれたのだろう。
「まりあちゃん、今彼氏はいる?」
「いえ、いません」
「じゃあさ、今は僕のことどう思ってる……?」
透さんは口ごもりながら不安そうな顔をする。
その表情がなんだか𠮟られた子どものように見えて、こんなにも可愛いらしい人だったのかと少し偉そうなことを思った。
「透さんはいくつになっても変わらず素敵だと思います」
「まりあちゃんはすごく綺麗になったね。物怖じしちゃうよ」
「なに言ってるんですか。それよりどうして私に会いにきてくれたんですか?」
透さんはコーヒーカップを置くと真剣な表情で私を見る。
「僕、社長になったんだ」
知っている。二年前、母から聞いていた。元々跡取りだったのだから社長になるのは当たり前だけど、どんどん遠い存在になった。会わなくなった透さんはもう私の知らない人になってしまったように感じていた。
「そうなんですね。就任おめでとうございます」
目一杯の笑顔で返す。透さんはきっと社員から慕われるいい社長になっているんだろうな。
本来ならそんな透さんの隣でいたのかもしれないと思うと胸が締め付けられるような気持ちになる。でも私にそんなことを思う資格なんてない。
「まりあちゃん、僕の気持ちはずっと変わってないよ」
「透さんの気持ち……?」
「まりあちゃんは? 僕のこともう好きじゃないかな? こんなおじさんやっぱり嫌かな」
透さんはまるで私のことが好きなのではないかと思わせる事を言う。最後に会ったあの日、確かに透さんは好きだと言った。けれどあの時、十五歳の私にそんな意味で言っているとは思っていなかった。
「透さんは私のことが好きなんですか?」
「好きだよ。あの時も好きだって言ったでしょ? この七年間まりあちゃんのことを忘れたことなんてなかった。必ず迎え行こうって決めてた。でもそれを言って、これから大人になるまりあちゃんを縛りつけたくはなかったんだ」
「透さんはずっと私のこと、そういう対象としてみてくれてないんだと思ってました」
「あの時はまだそんなこと言えなかった。でも、まりあちゃんは僕にとってずっと大切で愛しい存在だったよ。十歳も年上の僕と結婚したいって言ってくれて嬉しかった。僕も同じ気持ちだったよ。それは今も変わらない」
ちゃんと、私を想ってくれていたことがすごく嬉しかった。まだ子どもだった私のためにその気持ちを言わないでいた気遣いも透さんらしいと思った。
「私もこの七年間透さんのことを忘れたことはありませんでした。今、こうして目の前に透さんがいて、やっぱり好きだなって思いました」
透さんは私の言葉に顔を綻ばせると、姿勢を正す。
私もつられて背筋を伸ばした。
「まりあちゃん……僕と結婚を前提にお付き合いしてくれませんか?」
「っ……」
改めてちゃんとした言葉を言われるとなんて返したらいいか分からなくなる。
私は今の自分に自信がない。会社と関わりのある社長の孫でもないし、まだブラックコーヒーも満足に飲めない。透さんからすれば子どものころと変わりないかもしれない。
「きっと今の私は透さんに相応しくありません」
七年前ならきっと無邪気に喜んでいただろう。でも今はそんなに簡単に頷くことが出来ない。年を重ねるにつれ臆病になっていた。
「相応しいとか相応しくないとかそんなことは関係ないよ。だって僕はこんなにまりあちゃんのことが好きなんだ。やっとこの気持ちを伝えることができるようになって、やっと会いに来ることができた。僕がまりあちゃんと一緒にいたい。それじゃダメかな?」
「透さん……」
気付けば涙が流れていた。ずっと抑えていた想いが、本当は忘れてしまいたかった想いが溢れていた。
「これから先、何があってもまりあちゃんと一緒にいるって約束する。今、それだけの力はちゃんとある。だからこれからずっと一緒にいてほしい」
これから先、どうなるのかはわからない。それは過去の経験がそう思わせている。けれども今、目の前にいる透さんと一緒にいたいと思った。この幸せな瞬間を大切にしたいと思った。
「……はい」
涙をそのままに大きく頷く。透さんは優しく笑ってくれた。
その変わらない笑顔に昔のことを鮮明に思い出す。
透さんのことを好きだと自覚したあの時、透さんが代わりに飲んだブラックコーヒー、七年前最後に会ったあの日。全てが苦い思い出だった。
私はカップを手に持ちコク、コク、とブラックコーヒーを飲む。
やっぱり苦い。けれどその身体に染み渡る苦みがこの幸せを実感させた。ずっと自分の中にあった黒い感情がコーヒーと一緒に身体の中で溶けてなくなっていくような気がした。
いつかこの苦みを美味しいと言える時がくるのだろうか。
そうならなくても私はきっとこれから飲み続けるのだと思う。
これまでの思い出も、これからの幸せも嚙み締めながら。
ブラックコーヒーをあなたと。
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