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大切なものが、突然消えてしまった。
そこにあって当たり前だと信じていたのに、そうじゃなかった。
いつも自分の傍らにいた、まるでじゃれつく仔犬のように。
つい邪険に扱ったり、少しだけ意地悪をしたし、冷たく当たったこともある。
でも、心の底では大好きだった。
大好きだってことにさえ、気付かないくらいに大好きだった。
そんな存在が突然自分の周りから消えてしまった喪失感は、いままでのどの感情とも違っていた。
言葉では言い表せないし、頭でも説明がつかない。
心に穴が空くと言うけど、そんな比喩でさえ見当違いのように感じる。
消えてしまったことを理解できないし、信じることも出来ない。
そこにいつものように、笑いながら現れてくれるんじゃないかと思ってしまう。
わたしの精神は、そのときコントロールが利かないくらいに壊れていた。
今日は昨日と同じで、明日も今日のように過ぎて行くはずだった。
言い換えれば、昨日が明日であってもなんの差し支えもない。
それは永遠に続くはずだった。
あの時までは・・・
すでに梅雨入りを迎えぐずぐずとした天気が続いていたが、めずらしく昨日と今日は晴天だった。
気温も高く夏と見まごうばかりの蒸し暑さに、わたしたちは目の前の川に入り涼を求める。
熱い身体に水が心地よい。
ここ二日間の行動は、いつもと少し違っていた。
遊ぶテリトリーや、メンバーが異なっている。
いつもはいないはずの顔が混じっていたし、いつもは行かない場所へ来ている。
半日授業の昨日とは違って、日曜の今日は朝から待ち合わせして遊び始めた。
そんなこと自体が、いつもとは違う行動だ。
それでも昨日はまだよかった。
かなりの人数だったし、場所もそう遠くはなかった。
しかし今日は違う、いつもなら絶対に行かない土地にまで来ていた。
四人という少人数の中に、ひとり別の地域の人間がいる。
同じ小学校だから顔は知っていたが、いままで遊んだことなどない子だった。
なにもかもが、いつもと違っていた。
近所のガキ大将に誘われるがまま、随分と土地勘のない場所へまで足を伸ばしてしまっている。
通常であれば、行くはずなど絶対にない場所だ。
なん年か前まで住んでいたところは川のすぐ近くで、しょっちゅう川遊びはしていた。
河原付近で悪戯している分には、そう危険な流れでもない。
そんな同じ川であっても、ここは少し下流に当たる。
いま思えば一キロと離れてはいなかったのだろうが、子どもにとっては遠い場所だった。
同じ川ではあるが、風景がまったく違う。
臆病なわたしはふくらはぎ当たりまで水が当たると、それから先へは足を踏み入れない。
川の中央付近では、ガキ大将といつもは遊ばない子が楽しそうに泳いでいる。
それを見て判るように、そう危ない川ではない。
しかし小心者の上に泳げないわたしは、それを羨ましいとも思わず浅瀬で眺めていた。
六月の梅雨の隙間だというのに、夏本番のように太陽は輝き世界は輝いていた。
いつもとは違うが、やがてそんな一日も終わり平凡な夕暮れを迎えるはずだった。
しかし、それは儚い妄想だった。
「にいちゃん!」
声がした。
振り向くと、そこに弟の顔があった。
それも一瞬で、あっという間に弟は川面に沈んでいった。
それは本当に短い時間だった。
なすすべもなくわたしはそこに立ち竦み、大声を挙げてほかのふたりを呼ぶことしか出来なかった。
一瞬の出来事の上に、わたしはまったく泳げないのだ。
助ける術などどこにあっただろう。
声に反応したふたりは、わたしが指差す辺りに潜り必死に弟を探している。
わたしは心の中で希望的観測を叫んでいた。
(きっとすぐに見つかる、ふたりが引き上げてくれる。きっと見つかるさ)
それほど深くもなければ、流れが速いわけでもない。
だが一分経ち、二分経っても弟は見つからない。
それからどのくらいの時間が経っただろう。
辺りは夥しい人の群れで溢れている。
水難事故を見物するための人々だった。
わたしはそんな人々、すべてが邪魔だった。
現実を見るのが恐くて、川辺に行く勇気はなかった。
見てしまえば、受け入れなければならなくなる。
少し離れた道の傍らに座り込んでいたわたしの耳に、絶対に聞きたくない言葉が飛び込んできた。
「わあっ、気持ち悪かった」
「やっぱり駄目だったって」
「引き上げられたけど、死んでたって」
子どもの声だった。
いまでもはっきりと覚えている、その子どもは「気持ち悪い」と言った。
なぜか無性に腹が立った。
しかしそれ以上に、死という現実がはっきりともたらされたことの方が衝撃だった。
なにもかもを吹き飛ばすくらいに。
聞いた瞬間わたしは人目もはばからず、大声で泣き叫んだ。
周りの人々はわたしが死んだ少年の兄だとも知らず、いきなり号泣しだした子どもを不思議そうに見ている。
いつもは人見知りで内気なわたしも、この時ばかりは人の目など気にならなかった。
大声を張り上げ、喉も裂けんばかりに泣いた。
死んだと聞いても、意味が分からない。
心が追いついてこない。
しかし確実なことは弟の死と、その弟が最期に見たのが兄の姿だったという事実だ。
さらに最期に発した言葉は「にいちゃん」である。
幼いわたしの心は、許容範囲をとっくに越えていた。
いったいわたしに、なにが出来たというのだろうか。
誰もわたしを責めはしなかったが、自分自身が責めている。
泳げないながらも、水に入って行くべきだったのだろうか。
その答えは幾つになっても出ない。
はっきりしているのは、わたしは行動を取らなかった。
捜してくれるのを、ただ待っていただけだ。
なにが正解で、なにが間違っているのか。
そんな答えなど見つからないのは当然だ、この世には結果だけがあるのだ。
姑息な性格のわたしは、その時の状況を親や親類から聞かれ嘘を言った。
「水が胸の辺りになるところまで行って、助けようとしたけど駄目だった」
「泳げないから、それ以上は出来なかった」
それを聞き、大人たちはわたしを慰めてくれる。
「しょうがないよ。お前がそれ以上入って行ってたら、ふたりとも溺れたかも知れない。それでよかったんだよ」
わたしは罪悪感で一杯だった。
嘘をついた自分が許せなかった。
しかしそんなわたしの証言など、実際には大人たちは覚えてもいないかも知れない。
でも自分はいつまで経っても忘れはしない、弟が死んだというのに嘘を言った。
かけがえのない大切なものを失ったというのに、少しでも自分を悪く思われないように嘘を言ったのだ。
梅雨の最中淡々とお通夜、お葬式が行われる。
子どもだったわたしが初めて経験する、人が亡くなった後の様々な儀式が整然と進められた。
やがてひと月が過ぎ、表面上生活は正常に戻った。
しかしわたしの心の中の空虚さは、なにひとつ埋まってはいない。
たったのひと月では、癒えようがないのは当然である。
わたしがこの心の《なにか》をやっと克服するのは、それから三十年近く経ってからだ。
梅雨も終わり、雨上がりの世界は本格的な夏を迎えた。
大切なものを失ってから、初めての夏だ。
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