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ノックの音がしてびくっと身構えた。逃げようにも行き場はない。ドアが開くのをじっと見つめていると、あの男が顔を出した。
「目が覚めたな。薬は飲んだのか」
私は黙って頷いた。ヒート中のΩを拾っておきながら、手を出さない男がいるなんて、にわかには信じられなかった。まだ油断は出来ないが、彼は一向に部屋へ入ってこない。今すぐどうこうされることはなさそうだ。あの女衒から逃げられただけでも、彼に感謝する必要はある。
「ありがとう。助けてくれて」
「俺がおまえを欲しくなっただけだ。今は何もしないから、まずはゆっくり休め」
今は…か
いつかはこの男も豹変するのか
少し落胆を覚えたが、彼が嘘をついていないことは伝わってきたので、私は少しだけ笑って見せた。
「何か食べるか。何がいい」
「…何でもいい。そんなにたくさんは食べられないけど」
「細いもんな。ちょっと待ってろ」
彼が微笑んでドアを閉めると、私は大きく息をついた。無意識のうちに緊張していたようだ。見知らぬ男の部屋に連れて来られたのでは、無理もなかった。
ほどなくして戻ってきた彼は、私に湯気の立つスープボウルを手渡した。
「少し冷めたからちょうどいいだろう。足りなければ言ってくれ」
小さく会釈をして、私はそれを受け取った。男はそのままベッドの脇に椅子を持ち出して座り、私を見守ることに決めたようだ。鶏肉とじゃがいもの入った素朴なスープだった。ひとくち飲むと、淡白だけど滋養がありそうな優しい味だ。一匙ごとに空腹が満たされていく。
唇の端が切れていたはずだが、しみたりはしなかった。ふと雨の中、彼にされたことを思い出して顔が熱くなった。
「あの時、何でキス…」
「ああ。ここ、怪我してただろ」
自分の口角を指差して、彼は悪びれもせず笑顔で言った。
怪我をしていたからキスをする?
意味がわからない…
やっぱり油断しない方がいい。
黙々とスプーンを動かして、気がつくとスープは空っぽになっていた。薬が効いてきたのか、不安感も薄らいでいる。私が器を差し出すと、男は満足そうに微笑んで受け取った。
「よく食べたな。もう少し眠れ」
私は素直に頷いて布団をかぶった。
「おまえ、名前は」
「…花梨」
「綺麗な名前だな。俺はケイだ」
「ケイ。いろいろ、ありがとう」
男は私の頭を優しく撫でて部屋を出ていった。あの優しい香りを残して。
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