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「引出しの二重底に隠されていた」無精髭の刑事はそう説明した。
廊下の空気はひどく張り詰めている。警察としては赤葉良樹への逮捕状を取ろうかという段階まで来ているのだろう、逸る気持ちが緊張感となってにじみ出ているようだった。
ふいに愛緒が音もなくほほえんだ。
「何がおかしい?」無精髭の刑事が怪訝と不愉快がまじったような声で言った。
しかし愛緒は、それを意に介したふうでもなく、至極平静に言う。「警察は良樹さんを犯人と見ているようですが、冷静になって考えてみてください」
「冷静にって言われてもな」と無精髭の刑事は幾分か気勢をそがれたように後頭部を掻いた。「痴情のもつれから女を殺したってことじゃねぇのか?」
愛緒は首を左右に揺すった。「考えるべきはそこではなく、わざわざ密室を演出した人間の心理です。仮に良樹さんが真犯人だった場合、決定的な証拠となりうるマスターキーをもっぱら自分しか利用しない書斎に隠すでしょうか」
あ、と零したのは、愛緒以外の全員だった──マリアは、あ、やば、と口を押さえた。幸い、警察の二人はそれどころではないようで、こちらには気づいていないようだった。
愛緒は言う。「普通なら自分と紐付けられないような場所に捨てたり隠したりするのではないでしょうか。つまり、良樹さんの書斎にあったという事実が、いささか逆説的にではありますが、彼の無実を物語っているのです」
「たしかにそうだが、しかしなぁ」無精髭の刑事は納得いっていない様子だ。「するってーと、犯人は誰なんだ?」
ふふ、と愛緒は再び微笑を洩らし、「先に言っておきますが、刑法第百九十九条、いわゆる殺人罪を犯した人間はいません」
「……は?」無精髭の刑事は目を点にした。「いや、あれはどう見たって他殺だろ」
一方、鑑識係らしき女は、まさか、というふうに驚愕の色を浮かべた。
「そちらの方はもうお気づきのようですね」愛緒はどこか楽しそうに言う。「そうです、今回の事件は一般的な殺人ではなく、被害者の同意のある殺人、すなわち同意殺人だったのです」
ふぇ? 同意殺人?
マリアの頭の中は疑問符でいっぱいだった。でも、よく考えなくても、いつもわからないことだらけなのだからこの状態が平常運転である。
無精髭の刑事は右の眉を吊り上げた。「死神探偵殿は三浦智子が犯人だとおっしゃりたいのか?」小馬鹿にするようなニュアンスがあった。「残念だが、彼女にはアリバイがある。ここから車で二十分ほどの百貨店の防犯カメラに映ってたんだ。店員の証言もある」
「いいえ」愛緒は静かに首を横に振り、そしてその名を口にした。「赤葉茉莉さんを刺殺した真犯人は──赤葉理久さんです」
嘘でしょ?!
マリアは愕然とした。八歳の子がそんなことをしたというのも信じられないし、何より彼の〈悪行ポイント〉はゼロだ、殺人犯だなんてありえない。
うち揃って驚愕の表情を浮かべる一同を見回した愛緒は、
「順を追って説明しましょう。
外部犯が考えにくいとなると、容疑者はこの屋敷の中の人間です。具体的には僕こと神流愛緒、赤葉良樹さん、赤葉麻美さん、赤葉理久さん、三浦智子さんの五人です。
このうち、証拠能力の高い明確なアリバイがあるのは智子さんのみ。僕と麻美さんは死亡推定時刻には遊戯室にいましたが、血縁関係にあるため証言の信憑性は低く、ひとまずは暫定的なアリバイがあるにすぎないとしておきます。
したがって、まずはアリバイという観点で智子さんを除外します。
また、先ほど話した、マスターキーの隠し場所の矛盾から良樹さんも除外します」
無精髭の刑事と鑑識係らしき女がうなずいた。
愛緒がちらりとマリアを見た。どうしたの、と見つめ返すも、当然返事はない。いったい何なのよ。
「続いて、動機から考えてみましょう」
愛緒は滔々と、機械的とさえ形容できる冷徹さで続ける。
「良樹さんには殺害する動機がありますが、すでに除外済み。
智子さんにはそもそも動機がなく、かつアリバイがあり除外済み。
調べていただければわかることですが、僕にも茉莉さんを殺害する動機はありません。面識もほとんどありませんからね。
麻美さんについては、不倫の事実を認識していなかったようですので動機はないと見ていいでしょう。
最後に理久さんですが、彼は茉莉さんと仲が良かったようですから動機はないと考えるべきでしょう」
「おいおい」無精髭の刑事があきれたように言った。「その理屈ならどいつも犯人にはならないっつーことになるじゃねぇか」
「ええ、そのとおりです」愛緒は事もなげに首肯した。「ですから茉莉さんが、いわば主犯なんです」
「……」無精髭の刑事は押し黙った。
「茉莉さんは良樹さんとの関係でひどく思い悩んでいたということでしたね。二十一歳という年齢を考えると恋愛感情に振り回されるのもさほど不思議なことには思えませんし、良樹さんとの恋が報われないとわかって自殺を図ることもありうるかと思います」
「ちょっと待ってくれ」無精髭の刑事が再び口を挟んだ。「あんた、さっきは同意殺人だって言ってなかったか? 単なる自殺なら全然違うじゃねぇか」
「ええ、もちろん、単なる自殺ではありません。それは現場の状況から明らかです──やはり注目すべきはそこなのです。僕には、一目見て妙だと感じたところが一つありました」そこで愛緒は、悪戯っ子のように挑戦的な笑みを見せた。「おわかりになりませんか?」
「……いや」と無精髭の刑事は眉間にしわを刻んで答えたが、
「あ、あの、もしかして──」鑑識係らしき女には思い当たるものがあるようだった。「被害者の服装のことですか」
「正解」愛緒はにこりとした──鑑識係らしき女は頬を赤らめてうつむいた。
これがイケメンスマイルの威力か、とマリアは戦慄した。きっと夥しい恋心を弄んできたんだろうなぁえぐいなぁ、なんて思う。
その犯罪的な笑顔を消して愛緒は、「今は十二月、それなのに上半身にまとっていたものが下着に薄いTシャツ一枚だけというのは、いかにも不自然だと僕は思いました」と言う。
たしかに、とマリアもうなずく。ここの廊下はスーツ姿でも寒い。しかも、一般家庭の比ではないほど長いのだ。Tシャツ一枚で歩き回りたくないというのが人情だろう。
「けれど」と愛緒は少しだけ声を低くした。「その時にはその理由がわかりませんでした」そしてまた、「けれど」と、しかし今度は声を高くした。「〈不倫の事実〉により推理をひらめき、〈良樹さんの書斎からマスターキーが見つかったこと〉でそれが確信に変わりました。
事件の全容、あるいは茉莉さんの思惑はこうです。
不倫に悩んでいた茉莉さんは、ある日、自殺を決意してしまう。しかし彼女は、ただ死ぬのでは良樹さんが得をするだけだと気づき、いったんは思いとどまり、彼を破滅させる方法を考えはじめた。
そしてひらめいたのが、〈自殺を他殺に見せかけて良樹さんをその犯人に仕立て上げる〉というものだったのです」
「っ!」無精髭の刑事の息を呑む気配と、
「それは……」鑑識係らしき女の悲痛そうな声が重なった。「あんまりにも悲しいですね」
「ええ──しかし、それが人間です」愛緒は断言した。「──話を戻します。茉莉さんはその計画に理久さんを巻き込むことにしました。彼なら丸め込めると踏んだのでしょう。それに、密室の演出という点で彼の体躯の小ささが必須だったのです」
「──っ」無精髭の刑事がまなじりを決した。「ダムウェーターか!」
「ご名答」愛緒は答える。「配膳用のダムウェーターは、当たり前ですが、人を運ぶようにはできておらず、通常のエレベーターよりも厳しい重量制限があるものです。この屋敷のものもその例に洩れず、三十五キロまでとされていました。
密室トリックにはいくつかの種類がありますが、今回のこれは抜け穴タイプといったところでしょうか。大人では利用できない抜け穴、すなわちダムウェーターを使って、施錠した厨房から脱出したんです。
手順としては、第一に茉莉さんが自分で刺した可能性を完全に排除するために前もって両手の親指を骨折しておく。
第二に良樹さんに罪をなすりつけるためあらかじめ彼の書斎にマスターキーを隠しておく。
第三に良樹さんにアリバイのないタイミングで子鍵を持つ智子さんを外へやる。
そして仕上げに、他殺に見えるように背中を理久さんに刺させ、ダムウェーターで脱出させる──ここで薄手のTシャツが活きてきます。つまり、子供の力でも確実に突き破れるようにそれを着用していたのです」
マリアは、え、そんなの、服をペロッてめくってあげるか、脱ぐかすればよくない? と疑問に思う。
それが顔に出ていたのか、愛緒は、「服を脱げばいいのでは、とお思いかもしれませんが、考えてもみてください。Tシャツごと刺された遺体と上衣を着ていない状態で刺された遺体、それが厨房にあった場合、どちらがより自然な他殺体に見えるでしょうか」
あ、そっか。マリアは納得した。不意打ちで襲われたなら服の上から刺される可能性のほうが高い。茉莉はそう思わせたかったんだ。
「なるほどな」無精髭の刑事が顎に手をやって小さく言った。「しかしそれがかえって疑念を惹起してしまったんだから、皮肉なもんだ」
「策士策に溺れるというやつですね」愛緒は、これでなすべきことはすべてしおわったとばかりに緊張を緩めた柔らかい口調で言った。
マリアも、いやぁよかったよかった、と肩の荷が下りた心地だった。
これで初仕事は無事に完了! 密室の他殺体を見た時はどうなることかと思ったけど、意外といけるもんだね! やっぱりマリアってツイてる死神なんだ! いひひっ……あれ?
マリアは気づいた。何か忘れてるような……?
マリアの頭の中に昨日食べたハンバーグセットの映像が流れた。べらぼうにお腹が空いていた。早く帰って何か食べたいな……じゃなくてっ!
ようやく思い出した。カルマ判定の魔眼だ!
愛緒は赤葉理久が真犯人──実行犯だと考えているみたいだけど、理久は〈悪行ポイント〉がゼロの人間さんだ。同意殺人だか何だか知らないが、人を殺しているはずがないのだ。
ということは、愛緒は嘘をついた? しかしなぜ……。
マリアは、どこぞへと小走りに向かう警察官たちの背を澄ました顔で見送る愛緒の横顔を見つめる。
自分の推理が間違っているかもしれない、などと思っているようには見えない、揺らぎのない美しいEラインだった。
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