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ソフィアはまだ夜が明けきる前の、早い時間に目を覚ました。見慣れない天井にしばらくぼんやりとしてから、顔をずらしたらイスに腰掛けて眠るヴィンセントが居て驚きのあまり声が出そうになった。
(ああ、そうだわ。階段から落ちて──)
落ちてどうしたのか、まるでわからない。しかも、なぜヴィンセントがソフィアのベッドサイドで腕組みをしたまま寝入っているのかも。
それにしても寝ているヴィンセントを見ていると、あまりの美しさに時を忘れてしまいそうになる。その唯一無二のグリーンアイが有名だが、目を閉じていても十分な美しさだ。ツンと尖った鼻先も薄い唇も怒っている時は冷たく感じるのに、柔らかな朝の光の中では一つも怖くなかった。
(怒らせてばかりだから……知らなかった)
よく考えたらあのシャーロットの弟なのだから、笑いながら優しくされたらたちまちにヴィンセントを好きになってしまう自信がソフィアにあった。シャーロットには直ぐに魅了されたのだから、ヴィンセントが微笑んだら──。
そこでソフィアは息を飲んで、上半身を勢いよく起こした。自分がシャーロットのドレスを着ていない事に狼狽し、布団を握り締めていた。
ソフィアの動きで目を覚ましたヴィンセントがカーテンの隙間から入り込んで朝日に眩しそうに顔を歪めていた。
「起きたのか。頭が痛いとか、いつもと違ったことはないか?」
目を瞬かせてからソフィアを見ると、琥珀色の目としっかり視線が絡んでヴィンセントの意識が一気に覚醒する。吸い込まれそうだと思った。今にも泣きそうな表情に男としての保護欲が掻き立てられて抱きしめてしまいそうだった。
「あの……私が着ていたドレスやネックレスは……」
ヴィンセントはその言葉で淡い夢から一気に現実に引き戻された気持ちになった。大きな落胆を覚えて、立ち上がった。
「ドレスの心配か……」
結局、やはり金の話なのだ。何を期待したのか、ヴィンセントは自分の甘さに嫌気がさしてソフィアに背を向けた。どんなに金しか頭にない女なのだと思おうと、ソフィアを見ていると弱い自分が誘惑に負けそうになる。すがるような眼差しや、不安気な口振りに心がゆれるのだ。その演技力は魔性だ。
「目が覚めたことを侍女に伝えよう。直ぐにでも朝の準備を手伝いにくるだろう。私はこれで失礼する」
ヴィンセントの去り方は、ソフィアを打ちのめすのには十分だった。明らかにここから去りたいという意思が滲み出ていて、ソフィアは深く傷付いていた。
(ドレスの事を持ち出すまでは、まるで……)
ソフィアを求めているようだった。それなのに、一瞬にして世界が反転してしまったような拒絶。
(でも、ドレスは借り物だもの気にするわ)
ソフィアは悲しみにくれる自分自身を慰めて、ノロノロと布団を退かして立ち上がった。目の前がくるっと回ったような感じがあったが、目を閉じてやり過ごすとなんとか普段通りの感覚に戻る。軋む身体、一本一本探るように足を動かして窓辺まで行くと外を眺めた。針葉樹の向こうには完全に葉の落ちた広葉樹が立っている。
(もしも、ドレスが破れたりしていたら……どうやって償えばいいのかしら)
宝石箱の中に迷い込んだような、素晴らしい夜だった。味わったことのない興奮と、これまでで一番の恐怖。
(私、突き落とされたのね……死んでいてもおかしくなかったのよね)
悪意のある表情が思い出され、背筋に冷たいものが走っていく。急に寒さを感じてソフィアは自分を抱きしめるように体に腕を回した。嘲笑う人々の冷たさには慣れているソフィアでも、あの殺意が籠もった目は心底恐ろしいと感じた。
(早く、帰ろう。もう二度と、パーティーには出ない)
「お目覚めとうかがいました。お部屋に入ってもよろしいでしょうか」
昨日、世話をしてくれた侍女がドアの外から声を掛けてきた。
「はい」
ソフィアが許可を出すと、侍女は直ぐに部屋へと入ってきた。
「お食事の準備をいたします。その前にお着替えと──」
侍女が話し切らない前に、ソフィアが首を横に振った。
「食事は結構です。今すぐに帰りたいの」
キャサリン夫婦のいるあの小さな家に戻りたかった。
「でも、お食事を取られたほうがいいと医師からも言われてまして」
「ごめんなさい。食欲がないの。馬車を用意して貰えるのかしら。もし、駄目なら自分でこちらを出ていくけれど」
侍女は「もちろん、馬車は用意いたします。直ぐに出発されたいのですね?」と確認した。
「ええ、お願いします。あと、昨日のドレスは切れたりしてないかしら?」
これには侍女がほんの少し表情を緩めて頷いた。
「少し汚れた程度でございます。洗えば落ちるよごれでした」
侍女の言葉にソフィアがどれだけ安堵したか、侍女はわからないだろう。それに馬車を用意してくれることにも、内心ホッとしていた。
「では、帰る支度をするので、服を持ってきていただける? 一人で服を着られるから、あなたは馬車の手配をしてきてください」
侍女はソフィアが心底帰りたがっていることを理解したようで、直ぐに動いてくれた。
「では普段使いのドレスをお持ちいたします。ヴィンセント様にはソフィア様が直ぐに出発されることを報告し──」
「しなくていいの。彼はたぶんそんなことは聞きたくもないと思うわ」
ケンカをしたのですかと侍女が気の毒そうに聞いてきたが、ソフィアは曖昧な表情を浮かべて「わからないわ」と答えるのみに留めておいた。
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