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急ぎ馬車に乗り込むと、トンプソンか従僕を連れて大股で近づいてきた。トンプソンは走ることがない。よって、これが最速なのだ。
「一泊分のお支度でございます。それと──」
まずはトランクを馬車の足元に置いて、半身振り返り従僕より箱を受け取ってヴィンセントへ箱の中身を見せた。
「取り戻しましたルビーのネックレスでございます」
豪華そのもののルビーのネックレスは悪くないが、ソフィアにはあの金色をルチルクォーツの方が似合うだろう。値段ではない。ソフィアには似合うものをつけさせたい。
「ソフィア様にはルチルクォーツの方がお似合いだとは思いますが、お二人にとってこちらのルビーのネックレスは関係をやり直すにあたり特別な意味があると考えております」
ソフィアがルビーのネックレスを手放したのはヴィンセント側の落ち度だった。しかしソフィアは質入れしたことを申し訳なく思っているらしい。ならば、確かにここもリセットしてやり直すのがいいだろうとヴィンセントは箱を受け取ると蓋を閉じた。
「トンプソン、素晴らしい配慮だ。礼を言う。さすが我が家の執事だな。幸運を祈っていてくれ」
「もちろんお祈りしております。私はソフィア様が好きです」
キャサリンではないが、ヴィンセントはトンプソンに「それは本人に言ってくれ」と笑うしかなかった。ヴィンセントもトンプソンも言葉がやや足らないらしい。
「じゃあ、行ってくる」
トンプソンは馬車の御者に出すように告げ、馬がゆるゆると動き出した。港町メルンまでは距離がある。とはいえ、そこにソフィアたちが宿を取るのは決定事項なのだから、きっと会えるに違いなかった。
(兄さん、許せよ。これまで自由なレスリーを支えてきたんだ、今回ばかりはその恩を返してくれ)
本気でレスリーがソフィアと結婚したいと思っているなら、悪いと思うが今回に限っては譲るわけにはいかないと決意を新たに窓の外を見つめていた。
夕刻頃、日が傾く前にソフィアとレスリーを乗せた馬車は港町メルンへと入っていった。
「見てご覧、あれが海だよ」
レスリーの指差す先に、どこまでも広がる湖が見えた。湖とは違うのは水際に木々はなく、日光を燦々と浴びた水面が煌めいている。
『煌めいています』
ソフィアの書いた文字にレスリーが「船も大きいから見て」と停泊中の船をみるように促した。
ソフィアは覗き込むように港を見ると確かに屋敷のような物が水に浮かんでいた。知識では一応知っていたものの、このような大きな物が浮かんでいるのが不思議だった。
「私はああいう船に乗り込んで遠くまで行くんだよ。ソフィアも行ってみたいかい?」
こんな時にもソフィアはヴィンセントの顔を思い浮かべていた。まだ見ぬ世界に惹かれても、遠くに行ってしまったら二度とヴィンセントには会えないかもしれないなどと未練がましく思うのだった。
『行きたい気持ちと怖い気持ちが半々です』
「そうか。私は昔から行きたくて仕方がなかったのだよ。父に危険だからとかなりお説教を食らっても我慢できなくてね。乗ろうとしていた船が出る時は家に閉じ込められていたんだ。そこでヴィンセントが一芝居をうってくれて──」
ここでレスリーがフフと楽しそうに含み笑いをして続けた。
「腹が痛くて死にそうだと大騒ぎして父の目を自分に向けさせたのだよ。あのヴィンセントがね。それはもう迫真の演技で。そこで私が『メルンにいい医者がいるらしいから、連れて来る』と飛び出して、そのまま船に乗ったと言うわけだよ。あとから父には大目玉を食らったし、片棒を担いだヴィンセントもかなり叱られたらしい」
あいつはいいやつなんだよとまた笑った。
とても意外な話だったが、ソフィアはヴィンセントの昔話が聞けることがとても嬉しかった。本当はこの先のヴィンセントのことももっともっと知りたかったが、きっとそれはあまり耳には入ってこないかもしれない。
そうこうしているうちに、馬車はゆっくりと宿屋の前に停車した。レスリーが開いた馬車の扉から出ると、ソフィアに手を貸す。ソフィアも町に降り立つと、その町はこれまでとは違う香りがした。
「あはは、気がついたかい? 海の近くは潮の匂いがするものなのだよ」
鼻をヒクヒクさせて匂いを嗅いでいたのを気取られ、ソフィアはほんの少し恥ずかしかった。それに、レスリーの笑顔は時々驚くほどヴィンセントに似ていた。特に柔らかな笑みはそっくりなのだ。
レスリーを見てはヴィンセントのことばかり考えてしまうことを、ソフィアは心の端で詫びていた。それでも考えることをやめられないのは、ヴィンセントとの実質的な距離がまるで心の距離のように感じられ寂しさが募るからだろう。
「おっと、元気がないな。これはきっとソフィアの腹に力が入らないせいだ。よし、食事の支度を急がせよう」
レスリーはそんなことを言って、ウィンクし、近くにいた宿屋の人に話をしにのんびりと歩いていった。
(もっと楽しそうにしなければ……レスリー様に申し訳ないわ)
顔を振って自戒するソフィアだったが、ふと視線を感じて振り返った。たくさんの人が行き交っているが、もちろん知っている人は見当たらない。
(なぜ見られていると思ったのかしら)
ヴィンセントへの想いが後ろ髪を引いて、そんなふうに思ったなら良くないことだとソフィアはレスリーの後をついていくことにした。この先はこの人の後についていくのが自分の人生なのだと言い聞かせ、歩いていく。
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