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バトラー家のベッドはこれまで味わったことのないふかふか具合で落ち着かなかった。それでも長い時間馬車に揺られていた体は疲れていたらしく、いつの間にかぐっすり寝入っていた。
朝、起こしにきた侍女に何度もドアをノックされるまで起きなかったのはソフィアにも以外だった。飛び起きて、着替えを手伝って貰いながら「ヴィンセント様にお会いしたいのですが、在宅されているかしら?」と質問してみた。侍女はコルセットの紐を引きながら答えた。
「はい。もう既に家で書類の整理をされております。朝は前日の書類仕事を片付けるスケジュールになっているようです」
妻ではあるがソフィアはヴィンセントの事を本当に何一つ知らない。執事ならまだしも侍女よりも知らなかった。
「では、お手すきの時間にお話しがしたいと伝えていただけるかしら」
侍女の手が止まって「お忙しい方でスケジュールを変更することを嫌がられるので……一応お伝えしますが」と、望みは薄い事をやんわり告げられて、ソフィアは「そうなのね」と短く答えた。
侍女は気を取り直して明るく「今夜はパーティーでございますね。ソフィア様がこのような美貌の持ち主なら、それはそれは噂になるでしょう。楽しみでございます」と声が躍る。水を差して悪いがソフィアはどうしてもその話題になると心が沈んだ。
「それが……ここまで来ておいて言いにくいことなのですけど、パーティーの参加は控えさせていただこうと考えているのです」
侍女の返事は「まぁ……」だった。予想外だったのは百も承知だ。ここまで来ておいて、参加しないなんて驚かない方がどうかしている。
「そのことも含め、ヴィンセント様にお会いしたいのです」
侍女は焦ったように「そうなのですね。ではヴィンセント様には至急お話したいことがある旨をお伝えしておきます。だってパーティーは今夜ですもの……」答えて少しだけ手を速めた。
侍女はソフィアのドレスが質素なことに気がついていないのだろうか。もしかすると普段は倹約家でパーティーの時には豪華に着飾ると考えているのかもしれない。
「あ、そうだ。パーティーの前にヴィンセント様のお姉さまがこちらにいらっしゃるそうです。ソフィア様と挨拶したいという事でございました」
それは青天の霹靂だ。このままバトラー家の人々に会うことなどないと思っていたので、突如として緊張してきた。
「シャーロット様は気さくで良い方ですよ。結婚されてこの家からは出てしまっていますが、時々帰ってこられるので私共はそれを楽しみにしております」
侍女がそういうのだから、ヴィンセントとは性格が異なり社交的なのだろう。いや、ヴィンセントだってソフィアを相手にしていないだけで、他の人には感じのいいひとなのかもしれない。
「それはとても楽しみです」
ヴィンセントの姉にも相手にされないことを想像すると気が重いが、口ではそう言ってみた。侍女はドレスを着つけると髪も慣れた手つきで結い上げ、ヴィンセントに伝えに行くと言って部屋を出ていった。
入れ違いでやってきたのは、前に会ったことにある家政婦長だった。この大きな屋敷の中では仕事を分業しているはずなのに、どうして家政婦長がやってきたのか訝しんでいたが、ただ朝食を持ってきたと言われて納得しないまま大人しく部屋にあるテーブルに着いた。
トレーには紅茶ポットが乗っており、注ぎ口からは薄っすら湯気が上がっていた。まだ温かいらしい。それに焼き立てらしいスコーンの香り。昨日の昼に食事をとったっきりだったので、これには無条件に体が反応する。口の中に唾液が滲み出てきた。
「いい香りですね」
礼儀正しく声を掛けたが、無視された。そうしてやっとこの家政婦長ガルシアがどうやらソフィアを相当嫌っていたことを思いだした。カチャカチャと音を立てる皿、スコーンに添えられたクリームの横には艶やかなブルーベリーのジャム。ガルシアに嫌われていようと美味しいもの前にしたら食べたい欲がむくむくと立ち上がってきていた。
お茶が注がれると、ソーサごとソフィアに手渡された。
「ありがとうございます」
会話にならないとわかってはいるが、ここで何も言わないのは違う気がして礼を言った。
「なんで私がこんなみすぼらしい人にお給仕しなければならないんだか」
声は大きくなかったがしっかり聞き取れた。ギョッとするソフィアを見つめると、首を横に振り理解できないというリアクションの後、また一言も話さなくなった。
ソフィアはまだこれからヴィンセントに金の無心をするという大仕事が待っているのに、今すぐキャサリンたちのもとに戻りたくなっていた。あばら家だと思っていたあの家が今は恋しくて仕方がない。
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