挙式

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 祭壇に司祭が立ち、既に待機しているヴィンセントに小声で話しかけてきた。 「本当に良いのですか? 誓いの言葉も誓いのキスも省くなどという事は聞いたことがありません」  ヴィンセントは何を今更としか感じない。この司祭とてこの結婚が愛の元に行われるわけでないことを知っているのだ。一般庶民の結婚よりも、貴族間の結婚は往々にして契約に過ぎないことが多い。そこから本当の愛情が生まれることも多いようだが、ヴィンセントの結婚はそのようなことはないだろう。 「サインを書くだけで十分です。無利益な演技などして長引かせる必要はありません。時間の無駄です」  ヴィンセントの有無を言わさぬ強い意志に、司祭はため息で返した。 「偽りの愛を誓うよりは神を冒涜しないのかもしれませんがね……それなら偽りの結婚はどうなのかという話になるわけで──」  長年の慣例を破るのはさぞ勇気がいるらしく、何度も話して説得した割にこの期に及んでもまだぶつくさ言う司祭に呆れかえって首を横に振った。 「やはり誓いのキスくらいは──」  粘ろうとした司祭を制したのは扉から真っすぐ伸びる光の筋だった。やっと新婦がやってきて、静々と通路を歩いてやってくる。慣例も何もあったものじゃない。招待した者はゼロ、家族すら呼んでいない、付添人も介添え人も居ない式だ。  ゆっくり歩いてやってくる小柄で華奢な女性がソフィア・シューマンらしい。もし、全く別人が成りすましていても、ヴィンセントにはわからない。会ったこともない相手なのだ。 「待っていましたよ。侯爵令嬢ソフィア・シューマン様」  司祭が辿り着いた女性に声を掛けると「はい。お待たせいたしました、司祭様」と、ベールの向こう側で声がした。それからヴィンセントを見上げ軽く膝を落とした。これは一般的な挨拶に過ぎないが、儀礼でもきちんと挨拶してきた相手にヴィンセントも滲みついた習慣で挨拶を返していた。  ここでソフィアが「はじめまして」と挨拶しなかったのは良かった。司祭がそれを耳にし、止まっていたお小言が再び再開しないとも限らない。倫理的に褒められたことではないと自覚しているのだから、もうお小言は聞きたくなかった。 「では始めます。お互いに婚前契約書は読んで理解しましたか」  先にヴィンセントに顔を向けたので、司祭に「はい」と答え、次にソフィアも「はい」と言った。  ヴィンセントはソフィアの声が落ち着いていて耳に心地よいことに胸を撫で下ろしていた。キンキン声など聞きたくない。少なく見積もって五年間は関わりのある人物だ。金にがめついだけでも最悪なのに、これ以上嫌いなポイントを増やして欲しくなかった。なんと言っても、暫くはヴィンセントの妻を名乗るのだ。 「それではここにサインをしてもらいます。サインをした時から二人は夫婦となることを認めます。神のご加護がありますように」  ヴィンセントはさっさと羽根ペンにインクを浸すとサインを書いた。ペンを元の場所に戻すと、ソフィアもサインを書き込んでいく。さすが学校運営に並々ならぬ執着をみせるシューマン侯爵の娘だけある。整った読みやすい文字だった。  司祭は二人のサインの下に、自らのサインを書き加えて紙で上から押さえた。インクが滲まぬようにし、これにてこの式は完結となる。司祭はヴィンセントを伺っているが、ヴィンセントは「ありがとうございました」と司祭に終わりである旨を伝え契約書を貰い受ける為に手を出した。 「後は執事に任せてあるので私はこれにて失礼いたします」  契約書を手にすると踵を返し、サッサと歩き始めた。熱心な信者ではないにしても、神を欺く行為はさすがに気が引けた。 「トンプソン、馬の準備だ! 役所に向かう」  歩きながら指示を出すと「正面に回してございます」と執事トンプソンが返す。ヴィンセントは振り返ることもなく「後のことは頼んだ」と外へと消えていった。  残された司祭とソフィアは無言でその姿を見送り、先に動き出した司祭がソフィアの為にベールを上げた。司祭は初めて見るソフィアの美貌に驚くと共に、胸を痛めていた。ソフィアは恥ずかしそうに俯いたのだ。置いてけぼりにされた花嫁に司祭は同情せざるを得ない。 「気になさることはない。いつだってルールを破る者はいる」  心の中では、極々稀にと司祭は付け加えたがソフィアは敢えて笑みを作り「はい、司祭様。私は気になどしておりません」と気丈に言い切った。 「控え室に私がエスコートしましょう」  老いた司祭の手に、ソフィアの手が乗せられた。 「光栄ですわ。ありがとうございます」  礼儀正しく言うソフィアの横顔は凛としていて立派であった。ますます司祭の胸には痛みが走り「今日という日がこれ以上なく美しいことをお気づきかな?」と、世間話に切り替えた。 「ええ。林檎の木が若葉をたくさんつけておりました。生命力溢れるこの季節はどこをみても美しくて感嘆の一言でございますね」  ソフィアも挙式などなかったように会話を返してきた。光の筋を辿る司祭はもしこの気の毒な花嫁の相手が自分であったならば、どんなに幸せだったろうかと思いを馳せるのだった。
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